□目次へ戻る
第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章
第7章 第8章 第9章 第10章 第11章
Cahira Of The Old Testament "Genesis" ?
「……」
初めに声があった。
声にならない、か細い物音。それでもそれは、確かな声だった。
「……」
もう一度、声をあげてみる。
まだ言葉にはならないが、確かに、その声は「在った」。
「……」
そして、この声こそが、その声をあげているものにとって、唯一認識できるものだった。
それにとって、声は世界であり、存在するすべてのもの。
「……」
声が途絶えるということは、無が訪れるということ。
だから、それは絶えず声をあげていなければならなかった。
「……」
それは、何かへと呼びかけるような声。
決して言葉は紡がれないが、確かにその声は、何かを求めていた。
「……」
だが、その「声だけで構成された世界」を訪れるものはない。
声をあげるものは、声以外のものを―自分自身の存在さえ―認識していないのだ。
「……」
声だけで構成された世界には時間すら存在せず、
それだけに変化も生じようがなかった。
「……」
―それは唐突に訪れた。
声だけの世界が、揺れる。
「……」
声をあげるものが何かに気付く。
世界に声以外の構成要素が顕われたのだ。
「……!」
そして、それは気付いた。
声をあげるものの存在に。
「……」
そして、それはゆっくりと、絶えず声をあげながら、
声をあげるもの、声、そして、その両者を認識する何かの関係性を見出そうとする。
「……」
声は、声を発するものにより生まれる。これが世界。
そして、その世界を観測する何か―
「……」
ようやくわかった。
この世界を満たす声、その声をあげているのは、「私」。
―考えるという行為が創出されてからというもの、声をあげていたものは考察に没頭した。
自分は自分を認識できなかったから、声をあげているものと自分を結びつけることが出来なかった。
自分は声をあげ、声が存在することを認識することでしか世界という概念に辿り着くことが出来なかった。
自分は自分という存在を認識することで、声をあげずとも世界の存在を認識することが出来た。
自分は声をあげるという行為のみを繰り返しただけだが、それでは現在のような認識は出来なかった。
…だから、自分をこのような状況に到達させた、声、声をあげる自分以外の何かの関与が…存在する?
初めて感じる疑問という感情…感情?
それは、ゆっくりと自分自身が内包するいくつかの要素の存在を認識した。
だが、今はそれ以上に、世界に変化を生じさせた何かを認識することが重要だった。
何故、それはこの世界に介入したのか?
自分、そして声で構成されたこの世界で、どんな概念ならば顕在することが出来るのか?
感情が波を立てるのをはっきりと感じる。
そして、ゆっくりと、「耳を傾ける」。
そしてまた、それは気付いた。
声は、自分だけのものではないのだ。
気付く、気付く。自分は考察という行為を始めてからも、声はやまなかった。
最初は、ただ単に世界とはそういうものなのだと思った。
だが―
「……」
いつ以来だろうか、馴染み深い、自分自身の声が、聞こえる。それをあげているのは、自分。
それが、世界を満たしていたもう一つの―確かに、自分自身の声とは違う―声と混ざる。
声には「種類」が存在するのだ。
同一の概念に別の個体、別の形、種類が存在するということを理解する。
そして、そのもう一つの声は、自分以外の何かがあげているのだ。
「……」
もう一つの声に返すかのように、声をあげる。
声をあげることが、それとの唯一の接点となるはずなのだ。
「……」
だが、状況に変化は訪れない。
不安が訪れる。
それが精一杯の感情を振り絞って生み出した答え、
声をあげることの出来るもの、自分自身と同じ種類の別の何かが存在する―ことは、誤りだった?
自分自身の声と、何かの声は実際にはまったく別の存在であって、声のみが存在する声も存在する?
だが、と、それは考えることをやめない。
無意識のうちに―と、言っても、それにはまだ確かなる事故の意識というものは存在せず、声をあげることも、考察することも、感情が欲するまま反射的に行っ
ているのに過ぎないのだが―感情が総動員され、もう一つの声を求める。
…「信じる」。もう一つの声も、何か別のものがあげているのだ。
そして、それと自分は接触することが出来るはずなのだ。
だが、そのためには、相手を認識しなくてはならない。
求める、世界を。求める、自分を。求める……何を?自分以外の…存在、声をあげることの出来る…
何故、声を上げることが出来るものに共通する……思考、考察……
考察することを始めてからどれだけの情報がそれの内部を流れていったか、
ようやく、それは自分自身が意識を持っていることに気付く。
同時に、はっきりとした意識は、思考を揺り動かすだけだった感情の波をより鮮明に認識する。
単語など存在しない世界でも、それは理解できた。
「自分は、自分だけで存在していたくはないのだ」
自分で自分自身を認識することによって世界は形を得た。
それが世界の全てならば、それで終わる。
だが、実際には違う。違うはずなのだ。
もう一つの声が存在する、それが、自分以外の存在を望む自分自身が生み出したものなのか、それとも自分が認識しえていない部分が世界に存在するのか。
前者ならば、自分自身で自分自身が望むものを生み出せばいい。後者ならば…その、認識していない世界へ到達してしまえばいい。
意識を集中させる。
自分自身の声が、自分以外の何かの存在を求める声だったように、もう一つの声にも、何らかの意図が込められているはずなのだ。そして、願わくば―そこに
意識が介在していてくれれば…
「……………………よ……」
声が「聞こえる」。単語など存在しない世界、言葉に意味などない。少なくとも、唯一の観測者はそれを理解することが出来ない。だから、その声に含まれる、
それが有しているはずの感情の意味を理解しようとする。
解釈が生まれる。それは多分に都合の良い解釈ではあったのだが、そうした事柄に辿り着くのは、それにはまだ、不可能なことであった。
―「それは私を呼んでいる」のだ。
感情が爆発する。
「…………………!!」
かってないほどに声を張りあげる。
その詳細な内容もわからぬもう一つの声に、必死で返答する。
何とかして辿り着かなければいけない…何とかして…
そして、自分が出来ることを思い返す。
「自分自身で自分自身が望むものを生み出せば良い」
そんなことが出来るならば…いや、出来る。出来る。出来る…
意識の中で、声にならない声が唸りをあげる。
何をどうしているのかはわからない。
だが、確かに、その意思は混沌たる世界を捏ね上げ、変質させていく。
それは、世界の創造か、世界への到達か。
観測する。新たなる認識の数々が奔流となって意識の中を駆け巡っていく。
世界が変質を遂げていく…その原因であろう、世界を観測することに集中する。
観測に必要なものは何か…声、自分自身、意識以外のものを認識するには、認識するという行為に必要な新たな要素が必要だ。それは…形だ。形があれば、より
確実に観測することが可能となるはずだ。
形を作り出すために、それは視界を得たのだ。
その視界はまだ、世界の形を眺めるにはまだ不充分なものだったが、形という概念を認識することに辿り着くことは出来た。観測するという行為の存在に辿り着
くことは出来た。
あとは、より明確な形を与えるために必要なものを求めれば良い―
「………光………」
…呼びかける声が聞こえる。はっきりとした声。
それは、自分自身を求めていたものたちの声。とびきり強い一つの声はあれど、声は一つではなかった。
視界には未認識の光景が広がっている。その意味を理解するのには、少し時間が必要だったが、難しいことではなかった。この世界において、自分は呼びかけて
くる何かたちよりも、様々な権限を有しているのだ。
―呼びかける声が聞こえる。はっきりとした声。
今や、その声を構成する感情と言葉の意味を明確に認識することが出来た。
「あなたは、何という神なのでしょうか」
ゆっくりと、声をあげる。
「私は、『在る』」
それは、全てを創出するものが発した荘厳なる声であり、今、ここに生まれてきたものが発した歓喜の声であった。
第1章
空気が暑く、重い。
全身の表皮が絶え間なく熱気を吸収し、苦痛を供給してくれる。
息を吸い、吐くのが痛い。
足を動かしたくない。
見渡す限りの熱砂。先を見通すだけで気が遠くなりそうな荒野を少年が歩いていた。
あれは昨日のことだったか、あの枝はやっぱり拾っておくべきだった。あれを杖にしておけばもう少し楽になったんじゃないか、ああ、それよりも、その前の
日
だったか、あの泉を見つけられたときになんで、なんで、その場限りにのどを潤すだけで満足して、水を汲むということに思いをいたらせることが出来なかった
んだろうか。
砂漠の砂でも、水に濡らせて固めれば水筒に使えたはず。いや、せめて手のひらいっぱいに水を水を、いや、そうしたらあの枝が拾えなかったかも
しれない…何度も何度もまったく同じ内容の後悔が思考の中を走り抜けていく。
…論理とは掛け離れたこうした考えとは別に、その後悔が何度目のループに入っ
たのかを確認することによって時間を数えている自分も同時に存在していることにも少年は気付いてた。
どちらにしろ、冷静安寧ではなかったけれども。
つい何日か前までは放牧からはぐれた羊などを探しては生計を得ていたが、その羊も今はもういない。見ての通りの流浪の日々。確かに、あの仕事は実入りが
い
いとはいえなかったけれども、今の状況に比べればずっとましだった。誰に愚痴を言うと言うわけでもなく、そんな風に毒づいてみるが、やはり後悔先に立た
ず
。
少しポジティブに、物心ついた時から親も兄弟もいなかった自分が、今日まで生きてこられたのがそもそもの幸福だったのではないか、などと、以前自分が住
ん
でいた町―なすすべも無く、あっけなく死んでいく同世代の少年たちの姿―などを思い出しながら考えてみるものの、それで自分の苦難を受け入れられるように
なるほど、少年は強くもなければ、大量の砂を巻き上げて砂漠を駆け抜ける風は弱くも無かった。
砂漠には人間を死に導く神がいると聞いたことはあったけれども、当の神様はよくこんな所に住んでいられるものだなあ、などと感心してしまう。下手をすれ
ば
もう少しでお世話になる可能性もある。そうしたら、その時には住み心地について聞いてみよう。話し相手ができれば、この苦痛に満ち満ちた一歩一歩も少しは
楽になるかもしれない…死神なら、自分の知り合いと顔見知りの可能性だってありそうだから、案外共通の話題もあるかもしれないし…少年が死神との対話を想
定して、少々愉快な気分になっている間に頭上の日はさらに輝きを増していく。
一日で一番の光と熱を地上に届けながら、太陽はまさに自らの威光を誇示する。
いよいよ脳内死神との対話に飽きた少年の目にも、それは嫌でも飛び込んでくる。
何がそんなに楽しくて光っているんだ。ちょっとばかりみんなに崇められたからって、いい気になっているんじゃないか。理不尽には理不尽、少年は不条理な
怒
りに染まっていく。
脳裏に掠めたのは、かって自分が住んでいた町の人々が太陽の神に跪き、ともすればそれが運命なのだと納得して、自らの命すら捧げる光
景。少年自身は、何故かどんな神も信仰する気にはならなかったが、それでも人が何を信じようが、神様が何を言おうが自由だと考えてはいた。だけど、だけど
も、だからって、
「いいかげんに…」
目を見開き、太陽に向かって叫ぶ。
少年は大きく口を開いて、とにかく神という神にありったけの八つ当たりを叩き付け
「し…」
言葉が途切れる。
ギラギラとした光がまるで触手のように飛び込んできて、目を痛めつける。今までの常識を余裕で飛び越えた熱が肌に突き刺される。爆発的なまでの光、とい
う
か、爆発。
確かに今日の太陽はいつもに増してやる気だった。それこそ、気を抜いたらやられるというレベル。だけど…いくらなんでもこれはないんじゃないだろうか。
少年が文字通り天に唾しようとした瞬間、その頭上すぐそこという所に太陽が現れたのだ。もはやどうすることも出来ない。驚愕の表情で太陽の洗礼を受ける
少
年。それはまさに、神に向けて奉げられるべき矮小なる人間の視線。
…これは、これは、やっぱりこれって、罰…?少年の見る走馬灯は親切なことに、この現状を招いた最大の原因をわずか一瞬で解析して、ピンポイントで再生
し
て見せてくれた。いくら神様に対する悪口を言ったからって、こんな即座に罰を執行するなんて。いくらなんでも無慈悲すぎるんじゃないだろうか。
即座に悔い改めて謝罪すべきなのか、どうせもうどうしようもないのだから、と素直に怒りの声を聞かせてやるべきなのか、それとも、こんな風に迷うことし
か
出来ないのが自分の限界、自分の答えなのか。
全身が遍く太陽の光熱を受け入れる。思ったよりも痛みは無い。全てを受け入れる、というより、ただ単なる身体の自然な反応によって目を瞑ると、手足を丸
め
てせめてもの防御の体勢。空しい足掻きではあったが、それが人間というものだし。
そんな達観だか諦観だかが結局の所、無力にして迷える少年―ジョシュアの
出した答えとなったのであった。
第2章
「光あれっ」
霞のように消えていった巨大な光球がほんの僅かな間をおいて、瞬時に再形成される。その言葉を発した―細身の少女は明らかに焦っていた。
彼女の目には見ることすら追いつかない速度で飛んでくる針状の光が、再び顕現しようとしていた光球を即座に打ち破る。あまりのことに少女は涙目になっ
た。
「あえっ!あえっ!ひか、ひ、光っ!ひかひゃっ、ひ」
やけくそ気味に複数の光球を出現させて、少女を追い込む一撃一撃に対応しようとする。だが、襲い来る無数の光の針はそれらを軽く霧散させ、なおも余裕を
持
て余しているかのようだった。
しかし、その攻撃はターゲットたる少女にはすんでのところで当たらず、防御の姿勢に移った少女がまたしても光球を出現させる
事を許してしまう…もっとも、攻撃の放ち手がその実力ゆえに少女の身に直撃を加えることが出来ないというわけでもなければ、脆弱な少女を痛めつけ、弄び、
自身の嗜虐性を満たすためにわざと攻撃を外しているというわけでもない。対峙する相手を知る少女はそのことにとうに気付いている…相手を傷つけないよう
に、最小限度のダメージを与えることでこちらを戦闘不可能に追い込もうとしているのだ。
そんな相手の余裕、そして自分の弱さに少女は怒りを覚える。だが、やれるべきことはやらねばならない。相手は確かに強力だが、自分には多彩な能力があ
る。
絶え間ない追撃の中ではなかなか使用できなかったが―
「くっ」
上がった声は少々わざとらしいものだったが、とにかく、少女の作戦が始まった。
相手の攻撃が当たっていないにもかかわらず、ダメージを受けたかのような素振りを見せることで相手を油断させようというのである。
(その忌々しい余裕が、命取りになるのようっ!)
少女の思ったとおりに、追撃がやむ。作戦は成功したらしい。
だが、まだまだ安堵することは出来ない。彼女は即座に作戦の第二段階に入らなければならないのだ。
「空よ、水の中にあれっ」
追撃を逃れるために上空高く舞い上がった少女は、それまで発生させていた光球に干渉し、そこから大量の水を発生させた…実際には、本物の水を大量に創り
出
すには少女の力が至らなかったために、その大半は光球がそのまま姿を変えて広範囲に幻影を映し出して見せたものであったが。
少々情けないやり方であっても、全ては作戦のうち。莫大な水流がいくつもの虹を創り出し、水流と空をはっきりと分けた中、唯一人天空に佇む少女の姿は、
な
かなかに幻想的なものだった。あたかも、この威光によって対峙者を退けんとでもいうように。
もっとも、対峙する相手はそんなこけおどしには乗ってくれなかったようで、莫大な水流(の幻影)などには目もくれずに、少女への追撃が再開される。しか
し、これもまた想定の範囲内。少女は自分の作戦の成功と勝利を確信したかのように、微笑んだ。
「天の下の水は、いっかしょにあつまれっ」
既に天より地に降っていた、虹を纏った水流が、実体、幻影を問わずにうなりを上げて対峙する追撃者に襲い掛かる。
だが、追撃者は先ほどと同様に針状の光を最小限に発射することで水流の実体と幻影とを区別し、的確に少女の位置へと接近してくる。加速。その途中で襲い
掛
かった実体の水流による攻撃を真正面から受けるが、微動だにせず、さらなる加速。
苦労して放った自分の攻撃がただの徒労に終わったことに、少々愕然としつつも、まだなんとか想定の範囲内。
しかし、当たっても大丈夫な攻撃をわざわざ丁
寧
に解析して回避するなんて…(私が苦労したのに、気を使ってくれた……ぁっ!?)さらなる怒りが少女の全身に充満していく。
それでも、まだ作戦は終わって
いないのだ、と激昂した少女は一切の慈悲を捨てる思いで―そんなもの、この戦いを始めた当初からなかったようにも思えるが―作戦を最終段階に移す。
多数の
水流が大きく渦を巻いて大地の一箇所に力の奔流を生み出す。力を集められたその部分だけが、ぽっかりと口を開けたかのように地面をのぞかせる。追撃者は
ターゲットたる少女と障害物の(になる予定だった)水流に気をとられ、そんな所にまでは目を向けていなかった。
―最後の攻撃は、任意の場所に攻撃を加えられるというわけではない。相手を射程範囲内にまで引き寄せねばならない。チャンスは一瞬、当たらなければ、負
け
る。
追撃者の速度は尋常ではない。あっという間に少女の目の前に辿り着くだろう。敵の姿を捉えることが出来るのは、向こうが追尾から攻撃に転じようとする瞬
間。すなわち、目の前に辿り着いた瞬間のみ。
精神を集中させ、その瞬間を待つ。精神を集中させようとすればするほど、逃げ出したいという恐怖、いっそのこと攻撃がやんでくれて、いつまで経っても
「あ
の子」が目の前に現れなければいいのにという怯えが足を震えさせた。
必死に、そうした弱さを追い出そうとしたその瞬間、少女の目の前に、追撃者の姿が躍り出た。久方ぶりに見る追撃者の面持ち、それは、ターゲットの少女と
変
わらぬ年頃だと思わせる、優しい顔をした少女だった。全身を覆う鎧と手にした槍を見れば、彼女を追撃者だと認識することも出来るだろうが、それにしても、
その少女の表情はあまりに柔らかで、ターゲットたる少女でなければすぐに気を許し、攻撃の手を緩めたことだろう。
だが、ターゲットたる少女からすれば、その表情には憎悪しか覚えられそうになかった。まだまだ余裕だとでも言うのだろうか、それとも、こんなことは間
違っ
ているとでも言いたいのだろうか。そうした憤怒が、弱気を吹き飛ばし、少女に極めて冷静な決断を下させた。
「乾いたとこ…土から、草とか樹とか、あと花とか実とかめばえよっ!」
その言葉が発せられると同時に、先ほど干渉した大地より巨大な樹木が芽生え、追撃者の少女を貫かんと天に向かって唸りを上げた。追撃者は即座にそのこと
に
気付いたが、既に攻撃態勢に入っていたために、防御することも回避することも出来ずにその攻撃をストレイトに受けた。樹木は追撃者を巻き込んだまま、さら
に上昇していった。
「…ふう」
少女はいまだ天への咆哮を続ける樹木を見やって、自分でも上手くやれたものだと嬉々とした。
致命的なダメージを与えられたとまでは考えない方がいいだろうが、ひとまずこの場は切り抜けることが出来た。そう確信してか、少女はゆっくりと肩を上下
さ
せる。ほんの少しでも疲労を回復させようとしたその身は疲労を隠そうともしなかった。
とりあえず、即座に追い討ちに入るのは避け、まずはここを離れて反撃の態勢を整えなくてはならないだろう。回復とはいえないが、その身も少しは落ち着き
を
取り戻してきた。すぐにこの場から離れよう、そう決断して、巨大な樹木に背を向け、
(…?)
違和感に気付いた。
自分が出現させた巨大な樹木だが、様子がおかしい。その勢いがとどまる素振りすら見せないのもそうだったが、それ以上におかしいのは、最初に芽生えた樹
木
の周りに、さらに様々な植物が芽生えて絡み合っていること。
「た、確かに、今回のは自信作だったけど…っ」
少女は内心焦りながらも、目の前の光景を、自身の隠れていた才能の鮮やかな開花なのだと思い込むことに専念した。自分で自分の実力を過小評価などしてた
ま
るものか、と。
だが、少女は、自分が対峙する相手を知っているのだ。あの少女の実力、その性格…なんせ、けんかを吹っかけたのは自分の方である。
昇り切るまで昇り切った樹木が、ゆっくりと折れ曲がり、今度は下降を開始する。足元を見やれば、新たに芽生えた無数の植物が驚異的な速度で上昇している
の
にも気付けたはずだ。
少女にも、反撃がくるのは理解できた。理解できたのだが、だからといってどうすればいいのかはもはやわからなかった。
わかっていたことは唯一つ、自分が対峙する相手である、この地最強の神・バアルの支配する豊穣の力が、自分では太刀打ち出来ないほどに強力だったという
こ
と。
かっての自分の栄光たる下降する樹木の先端、とうに少女からバアルへとコントロール権が移ったであろうそれは、おそらく、猛撃な勢いで自分のみに打ち付
け
られることになるだろう。そう感じた流浪の神たる少女は、判断する時間すら与えられずに、ただ、瞼を閉じた。
(…あ、あれ…?)
すぐに全身を強烈な違和感が襲ってきたが、予期していた激痛はいつまでたってもやってこない。ゆっくりと瞼を開いていくと、自分の頭上すぐという所で樹
木
が停止していた。助かった、これなら、全速で脱出を図れば…咄嗟の判断、だが、腕も脚もぴくりとも動かない。
「なっ!?」
全身を襲った強烈な違和感の正体が判明する。新たに芽生えた植物群の蔓が、縄のように少女の全身に纏わりつき、彼女の行動を完全に制御していたのだ。
「は、はな、離し…は、」
なんとかして脱出を試みるものも、蔓は離れてくれそうに無い。むしろ、動けば動くほどその身に強く纏わり付いてくるのだ。焦って強引に引きちぎろうとす
る
と、まるで全身を余す所無く埋め尽くそうとでもいうかのように皮膚の上を這っていく。
「だ、駄目だよ!動いたらかえって外し難くなっちゃうよ」
「う、うるさいっ」
追撃者は既に戦闘の意思など微塵も持っていなかった。見事に仕留めたターゲット(のはず)の少女の身を心配するかのように、蔓を操作して、彼女の身を少
し
ずつ解放させていく。
「ちょ、ひゃめ、やっ」
それがかえってこそばしくて気持ち悪いのか、少女は素っ頓狂な声を上げる。
「あっ、ご、ごめんね」
バアルは慌てて、蔓を一気に退避させる。一瞬にして、地に根差していた植物ごと蔓は大地の奥底へと引きずりこまれていった。あの巨大な樹木も、そうした
植
物たちに従うかのように、おずおずと引き上げていく。
「ごめんね。ここは結構土がいいから、蔓も元気良く動いちゃって…あれ?」
「…光あれぇっ!」
呑気に謝罪しようとするバアルに向かって不意打ちを食わせると、少女は先ほどの予定を遂行せんとばかりに逃走した。
今の自分が出せる速度を考えると、全速力で飛んだとしても逃げ延びられるとは思えない。そも、逃げ延びた所でそれは敗走だ。そこから逆転に至る自分の姿
は
ちょっと想像できなかった。逃げ延びるのでは駄目なのだ。今の自分は勝利しか許されない身なのだ。それが流浪の民を率いる神たるものの使命、そして彼らと
の約束なのだから。
少女―このヤハウェたる神―は、自分の肩に圧し掛かる重責を噛み締める。やるしかない、この地に彼らを導くことが出来なければ、自分も彼らももはや行く
当
てが無い。
「光あれっ!あれっ!あえっ!ありなさいようっ!ありなさいってばあっ!」
万策尽きたとばかりに、絶え間なく光球を放つ。そのどれもが見当違いな方向に飛び散り、無闇な花火を真昼の空に咲かせた。このままではいけない、なんと
か
しなければいけない。
「生物よ、空を行け!海を行け!」
その言葉を聞き届けると、放置していた水流が溜まったままになっていた水溜りより、神ヤハウェの眷属たる海竜現れ出でて、主の下へ駆け付けんと雄叫びを
上
げた…が、人間の子供よりも小さいその海竜は、水溜りをぺちぺちとはたくばかりで地や空になど向かうことすら出来ないようであった。
「やっぱりだめかあ…ってっ!」
よそ見していたために、勢い良く飛ぶ鳥に激突してしまう。
「待ってー」
そうこうする内にバアルの姿が再び視界に入る。余計なことに力を使ってしまった。再び逃走の姿勢を整え、無駄とはわかっていても光球を創り出すことを再
開
する。後に残された海竜が暑さにバテていた。
「ひかっひっひかっ」
もはや声も枯れた。おそらく、もうじき飛行することも出来なくなるだろう。光球が出せなくなるのとどちらが先だろうか。いずれにしろ、もはやどうしよう
も
ないのだ。
(だけど)
ただで敗れるわけにはいかない。
自分はやれる限りのことをやらなければいけない。
ならば
(自爆覚悟で、残りの力全部ぶつけるしかない…っ。ギリギリまで近づいて…ううん、直接ぶつけてみせるっ)
余計な力を使わないために、飛行することをやめる。ゆっくりとその身が落下していく。それを見て、もしかしたら彼女は力を使い果たして気を失ってしまっ
た
のではないかと考えたバアルは、早く助けなければいけない、と急いでヤハウェに接近する。策通りではないが、戦闘態勢を完全に解いたバアルが近づいてくれ
ることはヤハウェにとって非常に好都合だった。
「だ、大丈夫!?」
落下していくヤハウェを抱きとめるバアル。
(……かかった!)
「え…」
ヤハウェの身が眩い光を放つ。全力をもってして放つ、彼女の最後の手段。
「きゃっ!?」
「えっ!?」
そんなヤハウェを見て、思わず投げ飛ばしてしまうバアル。
自分から遠ざかっていくバアルの姿を眺めながら、何が起こったのかと慌てるヤハウェ。
力を集中させることに気をとられすぎて、バアルを攻撃範囲内に拘束しておくことに頭が回らなかったのだ。
「あー」
と、気の抜けた声をあげて、ヤハウェの頭の中が真っ白になっていく。同時にその身も眩い光が発生していくことによって、真っ白に輝いた。
「あっ、あぶないよ!」
バアルの声など、もう頭に入らない。
ヤハウェの身を抱いた巨大な光球は、激しく輝きながら勢いづいて大地向け大きく跳ねた。
突如、地上に顕現したその太陽は、ヤハウェの思惟など意に関せずに大地と接吻を交わし、爆ぜようとしている
―その真下に一人の少年がいることになど、誰
も
気付いてはいなかった。
第3章
―迂闊だった
空駆ける黒衣の少女は、自身の至らなさに怒りを覚えていた。
我が主は、明らかに焦っておられた。自らが率いる民の要求に応えられていないという事を思い悩んでおられた。幾度もの失敗、離れていった御使いたち。徐
々
に不信の色を強めていく人間たちの顔。そして、明確にして強大な敵。
このような状況で、我が主がどのような行動に出るのか考えるべきだったのだ。そして、それを抑えるのは誰の役目なのかを。
―思い返せば、今朝より不吉な予感はあったのだ。異様に単独行動を取られようとした我が主の態度、根拠は無いが、奇妙な違和感もあった。単に、日々の疲
労
の蓄積なのだと片付けてしまったのは間違いだったのだ。
そして、その結果が黒衣を纏った少女の眼下に広がっていた。
地上に落下した太陽が、砂漠の真ん中でおおいに花びらを咲かせている。
頭が痛い。
第4章
こえがきこえた
その声のやかましさに意識を取り戻したジョシュアはその声を、怒りに燃え、彼を死の世界へと引きずり込んだ神の声だと思った。
そんなものと対峙したからといって、もはや言いたいことも無い。文句など言おうものなら、もう一度殺されたっておかしくない。神がそういうことぐらい平
気で行う不条理な存在であるこ
とぐらい、彼は気付いていた。
不思議と痛みは無い。そりゃあ死んだのにまだ痛いなんて勘弁して欲しい。いくら死後の世界とはいえ、これぐらいのサービスはあってしかるべき…そんな風
に考えながら、ジョシュアはゆっ
くりと立ち上がった。どうやら、死んでも歩くことは出来るようだ。
辺りは激しい光で充満している。どうやら、あの落ちてきた太陽の中にいるようだ。ぞろその光も弱まっているのだが、それでもまだまだ、ジョシュアを幻想
的
な場所にいるように錯覚させる程度の効果はあった。むしろ、触れていても熱くも痛くも無い炎のような光、というものがそうした気分を盛り上げてくれた。
「神様、いるのかな…」
果たして、ここはなんという死後の世界で、そこに待っているのはなんという神なのか。そんなことを考えていると、意識が再び朦朧としていくのを感じ
た…だが、薄れ行く意識の中で彼は確かにその声を聞いた。
そして、神の
姿を見た。
「ああ、もうっ」
かろうじて言葉になっていたのは、そこぐらい。あとは意味の無い嗚咽やため息、叫び。
熱の残滓が表皮で軽くはぜる度に、悔しさも爆裂していく。
ゆっくりと拳を握りしめる。体は自在に動く、だけれども、先ほどのように光球を発生させることは出来なかった。完全に力を使い果たしたのだ。
ほとんど痛めつけられることなく、戦闘不能にまで陥れられたのだ。
「う、あ…っ」
涙が出そうだった。
それでも、我慢する。
自分を包み込む光の残滓が、嘲笑と失望のコーラスのよう。激しくかぶりを振って耳を塞ぎたい気分に駆られたが、それでも、我慢する。
私は、万能なのだ、全能なのだ。こんなことぐらい、どうということもない。
ヤハウェはもう一度拳を握り、きっ、と前を見据える。こんなところで負けてなるものか。
まるでカーテンのようにゆっくりと引いていく光、視界が開けてゆくと、眼前に人影があるのがわかった。
正体不明のその人影がもしもこちらに攻撃を仕掛けてこようものなら、もはや力を使い果たしたヤハウェにはそれに対して出来ることはない。だが、それでも
まっすぐ前を見据えた視線は揺るがない。意地だけでも、倒れてなるものか。
力を失ってなお敗北を認めぬ神は、直立不動の体勢でそれを迎える。
そして、少年の姿を見た。
第5章
「は、はっ、これはいい。せめて最後は華々しくか!身の程知らずの流浪の神にしては立派なもんだ」
屈強な男が愉快そうに笑う。嘲りの思いが吹き出すたびに、唇の上にたくわえられた髭が上下する。
「ま、バアルとやりあった中ではまあまあだったかもね」
その隣で、ほとんど裸に近い格好をした少女が感情のこもっていない声で呟く。どうやら男と一緒にいるのが不愉快らしく、彼の顔も見ようとはしない。
「あ、アナトちゃーんっ!来てくれたの?」
砂漠に咲いた巨大な花の向こう側から、少女の声が聞こえてきた。
「ばあるーっここ!ここー!早く早く!」
その声を聞くと一転、先ほどまで退屈そうな表情をしていた少女が嬉しそうに叫んだ。
「アナトちゃん、それにラシャプさんも、別にこんな所まで見に来ること無いのに…」
かなりの速度で飛んでいるバアルは、あっという間に二人の立っている岩場にまで辿りつく。
「ま、楽勝だとは思っていたけどね。一応…あんただってケガしてたわけだし」
「え…?ケガって…モトちゃんのときの?すっごく前の?もう、何回も大丈夫だよって言ってるのに…そんなに心配してくれなくても大丈夫なんだよ?」
「別に、心配してるわけじゃないわよ。あの神(子)、ちょっとあいつと似てる所があるから…もしかしたらもしかするってこともあるでしょ。そうなればあ
たしだって恥ずかしいじゃない。相方が異郷の神に負けるなんてさ」
心なしか早口になるアナト。
「あはは、ありがと、アナトちゃん」
「つーか、ね、心配と言うなら、どっちかって言えば今のあんたの方が心配よ。せっかくの凱旋なんだから、もっと嬉しそうにしたら?」
話題の矛先を自分から逸らせようとしてか、アナトが言った。
「ん…うん、決闘自体は思っていたよりもずっと楽しかったんだけど…あの子が私と違って必死だったから…」
「負ければ自分のところの信者どもがみんな離れていっちまうんだからな。当然といや当然かね」
ラシャプはまだ、異郷の神の敗北の様子が愉快なようで、思い出し笑いのようには、はっ、と音を立てながら、この決闘が始まったときのことを思い出して
いた。
「ま、あたしらがノリで決めちゃったこととはいえね、向こうだってふつーに乗ってきたんだから、少なくともバアル、あんたが悪いってこたないわよ」
「でも…あの子たち、どうなっちゃうのかな」
バアルは砂漠に咲いた、そしてゆっくりと散っていこうとしている花を眺めながら呟く。
「信徒たちはカナンへの集団入植が出来なくなって離散…こっちの住民と結婚するなり改宗するなり奴隷になるなりして帰化したり、また別の新天地を目指し
て旅立ったりするだろうけど、とりあえず彼らが形成していた宗教的意識で強く結束された民族集団は瓦解するでしょうね。多分、あの子は…」
「消えちゃう…のかな」
「でしょうね…」
浮かない表情のバアルを見て、アナトもそれに合わせる。隣で相変わらず愉快そうに笑っている男を睨みつつ。
と、そこにもう一つ別の声が混じった。
「雷に火、水に木…あらまあ、どうしてなかなか」
砂漠のあちこちに残った戦闘の跡を一つずつ眺めながら、穏やかな口調でその人物は言った。
「せ、先生!?わざわざ見に来てくれたんですか?」
慌てるバアル。先生、と呼ばれた女性はにこにこという擬音を周囲にバラ撒くかのような笑顔を崩さずに
「ええ、せっかくの決闘なんですもの。ああ、そうそう、バアルさんもよく頑張りましたね」
「は、はあ…ありがとうございます」
バアルの横では、アナトが少々怪訝そうな表情で様子を伺っており、その隣のラシャプは先ほどまでとはガラリと態度を変えて、女性に跪いていた。
「君主エル…このラシャプ、その使命たる決闘の見届けを完遂しました…報告は…」
「別に、そんな使命もらってないでしょうが」
と、ラシャプの言葉を遮ったアナト、さらに続けて言う。
「ところで先生、なんであなたがこんなとこまで来たんですか?先生ならバアルとあの神…なんて言いましたっけ?の力の差ぐらいとうにご承知でしょう。わ
ざわざ見に来ることはないでしょ」
「アナト、そのような態度、君主に失礼であるぞ!」
自分たちの君主たるエルに、アナトが不信の目を投げかけていることに対して、怒りを明らかにするラシャプ。だが、アナトは彼には目もくれずに続ける。
「先生がバアルやヤムに立場を脅かされそうになって焦ってるって噂、人間どもの間ですら流れてるんですけどね。やろうと思えばあの神に肩入れする…なん
てことも出来そうですけど」
「アナト、いいかげんにしろ!」
「そ、そうだよアナトちゃんっ、先生に失礼だよ」
会話の流れはよく理解していなかったが、さすがのバアルもアナトを止めに入る。
「どうなんです、先生?力はたいしたこと無いとはいえ、ああも様々な能力を併せ持った神なんて、滅多にいませんよ?少しぐらい力を貸してあげたんじゃな
いですか?」
気にせずにエルを問い詰めんとするアナト。ラシャプが矢を取り出そうとしているのが見える。
「えっと…」
ぽわっ、とした表情で、エルが返答する。
「アナトさんは、バアルさんのことが本当に好きなんですねっ」
「はあっ!?」
頓珍漢な言葉に、アナトも二の句が接げない。
「バアルさんが心配だから、決闘の相手のあの子…ヤハウェさんを警戒しちゃうんですね。すばらしい友情です!ちょっと感動しちゃいました。でも、安心し
てください!先生はヤハウェさんに力を貸したりなんてしてませんよ。そんなことしちゃ生徒が真っ直ぐに育ってくれないって事ぐらい、幾ら私でもわかってま
すよ、もー」
「あ、あのですねー」
笑顔のエルに対してやりにくそうな顔になるアナト。
「先生、バアルさんもアナトさんも、立派に成長してほしいんですよ?それで私と同じように教職を目指してくれるんなら、教え甲斐があったというものじゃ
ないですか。焦ったりしませんよ」
「いや、教師じゃなくって!神々の王の方!」
「あ、そうですね。私、王もやってますよね」
「…」
沈黙するアナト。話すだけ無駄だと悟ったらしい。
「それじゃ、結局先生はなんでここに来たんですか?」
今度はバアルが聞いた。その目にはアナトのような不信感は滾っていない。
「ええ、そうですそうです。先生、さっきのアナトさんの話じゃないですけど、あのヤハウェさんのことがちょっと気になっちゃいまして。確かにまだ力はあ
まり強くありませんけど、なんだか光るものを感じちゃいまして」
まだ何か言いたげなアナト、それに気付かずにバアルが応える。
「それは…なんとなくわかりました。あの子、とっても頑張っていて…私、ちょっとだけだけど、わざと負けちゃったほうがいいかな、なんて考えちゃって…
でも、それだとあの子に失礼なのかな、ううん、まだよくわからないんですけど…」
少し考え込むバアル。それを気遣ってかアナトがバアルの肩に手をかけた。
「そうですね…今日のことはバアルさんにもいい勉強になったみたいですね」
「そう…だといいんですけど」
優しく語り掛けるエルの言葉に、バアルの気持ちも少しやわらぐ。
「ところで、そのヤハウェさんはどうなったんですか?」
「はい、あの最後に撃ってきた攻撃が思っていたよりもずっと強力だったから、あれごと爆発しちゃって大丈夫なのか心配だったんですけど、あの光の中で
ちゃんと立っているのを見ました」
つい今しがた、決着がついた直後のことを思い出すバアル。
「そうですか、じゃあ、あの子はとりあえず無事だったんですね」
「ええ、それに…あの光が地上に落ちる直前に、落下地点をちょうど人間の男の子が歩いていたのも見つけたので、それも心配だったんですけど…見に行って
みたらその人もちゃんと立ち上がったのでこれは大丈夫かな…て」
光の中でなにやら困惑していた少年の姿を思い出す。とりあえず、カナンの民には見たことの無かった顔だった。
「…ちょっと、バアル。それ変よ。あの神は、自分で作った攻撃だけに、自分への効力を無害に設定していたのかもしれないけど、普通の人間があんなん
食らったらケガどころか瞬時に消滅するわよ?」
「…え?」
「あらあら、先生の思ったとおり。やっぱりなんだか面白いことになったみたいですねっ」
第6章
「え…と、ちょっと、大丈夫?あ、ほら、なんか食べる?食べられる?」
目の前の少年の姿を確認して、ヤハウェが声をかけた。
最初は新手が追撃をかけてきたのかと思った。だが、相手はどうやら朦朧としているようで…それも、自分の審眼を信じるなら、目の前の男は、ただの人間
だ。
「でも…」
ただの人間が、こんな所で生きていられるはずが無いのだ。
「私の自信作だったんだから…っ」
稀に、神の攻撃に耐性を持った人間がいる。それは例えばその攻撃を放った神の守護を受けているものや、別の神から守護を受けているためにその攻撃を防げ
るもの。他にもいくつか要因はあるが、大抵はそんなもので
「私、こんな奴を守護した覚えは無いんだけど」
ヤハウェが抱く疑問はさらに深まる。
「うーん、どうしたものかしら…一応、私の責任もあるといえばあるかもしれないしー」
顎に手を当てて少しだけ考えていると、聞きなれた声が聞こえてきた。
「我が主よ、ご無事であられましたか」
その声をはじめて聞いた人間ならば、冷たく平然とした物言いとしか感じなかっただろうが、その声の持ち主をよく知るヤハウェには、そこに安堵の感情が込
められていることがわかった。
「当たり前でしょ!私は在りて在るもの…主、いわゆるゴッド!この程度、なんてことないわよ」
「だったら、最初から勝てよ、という話もありますが」
「何か言った?」
「いえ」
「まあ、大目に見てあげるわ。で、サタン、外の様子はどう?」
サタン、と呼ばれた黒服の少女はほんのひと時だけ主から目を離し、エルたちのいる方向を見た。
「…芳しくありませんね。バアルを迎えにアナトが来ていますし、予想外なことに主神エルの姿すらあります。姿は見えませんが、おそらく、エルの警護にあ
たっている神々もそれなりの数が待機していると思われます」
「…んー、一言で言って」
「我々では例え万全の状態であってもどうにもなりません」
あっさりと言った。頭を抱えるヤハウェ。
「それに…おそらく、このことは…我が主の民にも伝わっているかと…」
「……そ…っか」
ゆっくりとこぶしを握り締める―まだ大丈夫。まだ私はここにいる。
「とりあえず、ここから逃げてみましょ。あ、そうだ、そこにいる人間も一応拾っていって」
「その、突っ立ったまま身動き一つしない人間ですか?死んでいるとばかり…」
サタンは立ち往生している少年を見やる。
「さっき動いてたから、生きてると思うんだけど…」
と、少年の肩に手を置いてみるヤハウェ、
「あれ?なにこれ?なんか変」
と、違和感に気付いて手を離す。すかさず駆け寄るサタン。
「どうかしましたか」
もしかしたら人型ブービートラップという可能性もある。ヤハウェを自分の背後まで退避させ、今度はサタンが少年に触れた。
「これは…」
「これは?」
「死んでます」
「本当に?」
「ええ」
「本当は」
「死んでます」
「なんでわかったの?」
「なんででも、とにかくわかります。早く参りましょう」
「本音は?」
「こんなのには構っていられないので、そんなことより早くここを離れた方がいいです」
「詳細」
「…この人間は、我が主の盛大なる特殊攻撃の直撃を受けたようです…ですが、この人間の体質と我が主の放った一撃の性質によるもの、もしくはなにかしら
の影響を受けてそれらが変容した結果か…原因はわかりかねますが、おそらくは様々な条件が重なった結果、彼は我が主の全身全霊を込めた一撃を、その身に吸
収してしまったようです。その結果、この人間の体は我が主の攻撃による崩壊を免れましたが、その代わりに詳細不詳の変調をきたしたようです。現状では、こ
の程度のことしか推定できません」
サタンをしげしげと見つめるヤハウェ。
「…まあ、突っ込まないわ。とりあえず、そいつを持ってて」
「恐れながら、救出の価値のある人間だとは」
むー、と口を結ぶヤハウェ。自分が悪いとは認めたくないので、少年の現状に責任を感じているなどとはいえない。
「この人間さえいなければ、私の作戦は完璧だったのよ。その分の責任を取らせたいのよ」
「…御意」
サタンの視線が「私が見ていなかったと思って好き勝手言ってるな」というような意見を携えているのが辛いが、とにかく了承させる。
「それじゃ、行くわよっ」
もはや力の残っていないヤハウェは空を飛ぶことも出来ず、とにかく必死に走った。バアルらに見つからないようにか、ときたま隠れるかのような素振りを見
せるのが、従順な僕サタンの目にも少々空しく映った。
「サタン!早く!早くっ!」
「…ええ」
あちこちから注がれる神々の視線に気付いているのかいないのか。
「我が主よ」
「なに?」
「この人間、捨てませんか」
「駄目よっ!そんなことしたら、見つかっちゃうじゃない!」
「…左様ですか」
頭を抱えたかったが、生憎両手がどうでもいい人間を運ぶために貸し出し中だったために、それすらできなかった。
第7章
ゆっくりと瞼を開けると、目の前には女の子がいた。
「…おはようございます」
「…おはよ」
まだまだ気分曖昧。頭の中で状況整理開始。
見慣れた景色。太陽が落っこちてくる直前までは二度と見たくないと思っていたけれども、今となってはなんだか懐かしい。もしかするともしかするかもしれ
ない―死んでいない…?
ようやく意識が晴れていく。周囲にはもう、あの落ちてきた太陽も、その残滓も見当たらない。心底ほっとする。
「大丈夫?体とか」
「えと…多分大丈夫」
目の前の少女の言葉に、とりあえず返答。
「ならいいわ」
さて、この女の子は誰だったかな、などと回想モードに入り…ようやくジョシュアは思い出した。
「え…あの、君…あの太陽の中にいた…よね?」
「太陽?ん、もしかして、私の撃った攻撃のこと?地表でどーんと爆発したやつ」
「あ、多分、それ…って、え?」
硬直するジョシュア。思い返せばあの時、周りには誰もいなかった。なのに、この少女はあの太陽の中にいた。
「もしかして…」
「なに?」
「神様ですか?」
「それが何か?」
頭がくらくらする、目の前にいる少女こそ、自分に特大級の罰を与えてくれた神様だったのだ。
「な、なんであんなこと!確かに、僕は君のこと悪く言ったかもしれないけど、いきなりあんなことするなんてひどいよ!」
「はあ?こっちはあんたのおかげでとんでもなくピンチなのよ!あんた、責任取れる?取ってくれる?当然取るわよね?さあ、この落とし前、どう付けてくれ
るわけよ!?」
お互いにとって意味不明の応酬が続く。双方の頭上に次々に浮かぶクエスチョンマーク。
「落ち着いてください、我が主。ついでに落ち着け下等生物」
そこにまた、別の少女が割り込んでくる。ジョシュアにとってははじめて見る少女だった。
「だから拾う価値など無いと申し上げたのです。簡潔に説明しましょう」
「だって、この人間が言ってること、意味わかんないのよ」
「ええ、そうですね。おそらく人間ごときには我が主の崇高にして荘厳たる御言葉は過ぎるもの故、正しく伝わらないのでしょう。説明は私がします」
少女はなんだか、褒められているのか馬鹿にされているのか微妙で納得いかない、というような表情を浮かべたが、とりあえず押し黙った。
「で、その…あなたたちは…」
「こちらの崇高にして荘厳なる御方こそ万物の君主にして在りて在るもの、我らの主、偉大なる神なり。頭が高い」
「サタン、あんた、もしかして私のこと馬鹿にしてない?」
「滅相も無い。して、この私が神の従順なる僕、サタンです」
すっ、とお辞儀をする。つられてお辞儀を返すジョシュア。もう一人の少女もその様子を伺ってか、こくりと頭を下げて見せた。
「簡潔に言いますが、人間、貴方は我が主と異教の邪神との争いに巻き込まれたのです」
その言葉に少々考え込むジョシュア。
「え…と、それじゃあ、僕に天罰を与えたりとか、そういうことじゃあなかったっていうこと…なのかな?」
「なんで私が見たことも会ったことも無いあんたに天罰降臨させなきゃいけないわけ?」
「え…ううん、別に。そっか。うん、なるほど」
うんうんと納得するジョシュア。もっとも、天罰だろうが戦いのとばっちりだろうが、迷惑千万であることには変わらないのだが。
「まったく…あんたが私の攻撃を吸収さえしなければ、今頃は私が勝利していたというのに…」
「…いつの間に、作戦が成功していれば勝利も確定していたのかが今ひとつ理解できないのですが」
またもサタンの方を睨む神、あさっての方向に目をやるサタン。
仲の良さそうな二人の姿に、なんだか安心感を覚えるジョシュア。神々という連中に会うのは初めてだけど、思ったよりも人間的な人たちなんだなあ、などと
微笑ましい気分になる。
が、
「…その、今、僕が君の攻撃を吸収した…とか言ったような」
「そうよ、あんたが私の完全なる一撃をそのちっぽけな土くれ同然の身で吸収したがために、私の作戦は失敗したのよっ、さあ、どう落とし前付けてくれるわ
け!?」
「ちょ、ちょっと待ってよ…えっと、神…名前なんていうの?」
「人間ごときがこの私の大いなる御名をみだりに口にする気?まあ、この辺はいっぱい神とか名乗る連中もいることだし、ただアドナイ(主)ってだけじゃ、
呼ぶのに紛ら
わしいかもしれないから…仕方ないわね、あんたはヤハウェって呼んでもいいわよ」
仕方なしにジョシュアが自分の名を呼ぶことを許可するヤハウェ。その隣ではサタンが「どうせなら、ヤハウェと呼ぶがよい!という言い方なんていいんじゃ
ないでしょうか」と、よくわからないことを呟いていた。
「あ、うん。わかった。僕はジョシュアっていうんだ。よろしく、ヤハウェ」
「…なんだか、呼び捨てにされると嫌な気分ね。ついでに、私はあんたの名前なんかどうでもいいんだけど」
そんな少女…神の態度に思わず苦笑いしつつ、ジョシュアは話題を戻した。
「えと、君の作戦?とかいうのを邪魔しちゃったのは悪いと思うんだけど、その、今は僕が君の攻撃を食らったんじゃなくて、吸収しちゃった、ていうことに
ついて詳しく教えてもらえないかな?」
「…ほら、サタン、その程度の説明はあんたで充分でしょう」
そう言って、サタンを顎で指したヤハウェ。その姿を見てジョシュアは、この神は本当は大したこと無いんじゃない打おるか、などと不遜なことを考え始めて
いた。
「人間、貴方は我が主の放たれた大いなる光を、なんらかの原因によってか、その身に吸収してしまったのだ。結果、貴方は本来ならばあの光によって瞬時に
そのちっぽけな肉体と魂を灼き尽くされて消滅していたはずだったのに、こうしてほぼ無傷で生の喜びを噛み締められているわけです」
「そ、そうだったんだ…」
つまり、本当は死んでいるはずだったということだ。あんな光を吸収してしまった、と聞いたときは恐ろしくもなったけれど、そう考えるとかえってありがた
いことだったのか…ジョシュアは以前と変わらずに動いている自分の指を眺めながら、そんな風に考えた。
「それで、その攻撃を吸収しただけで、僕の体はおかしくなってたり……しません、よね?」
「そりゃもちろん、おかしくなってるわよ」
「ええ、おかしくなっています」
「そっか、おかしく……なったの?」
頭がくらっとした。
「おそらく。現在の所、なんら他の人間たちとの差異は発現していないが、神の力を受けたのだ、変容をきたさない方が異常だ」
「そ、そんな」
「そ、そんな…じゃないわよ。死ぬよかいいでしょ。それに、この私の大いなる力を授かったのよ?どっちかっていうと、喜ぶべきでしょーが」
ジョシュアにとっては、サタンやヤハウェの言葉は到底納得のいくものではなかった。
「そ、それで、結局、僕はどうなるの?」
「そんなことは我が主にも私にもどうでもいいことなので、お好きなように」
「お好きなように、じゃないよう」
めんどうくさがらずに教えてくれ、と食い下がるジョシュア。
「…神の力を得た人間、神の加護を受けた人間、神と交わって生まれた人間、などはいくつか私の認識の中に存在しておりますが、大体は力、肉体、寿命など
が人間の範疇から逸脱したものとなる場合が多いようです」
ちょっと聞くと、いいことのような気もするが…それでもジョシュアには納得いかない。出来れば神やらなんやらといった連中には一生関わる気は無かったの
だ。それなのに、まさか自分がそんなよくわからんものになってしまうとは…
「で、その…僕は、どうすれば…」
どうすれば、もなにも、どうしようもない。
「ですから、お好きにどうぞ。あまり大きな声では言えませんが、我が主の残存していた力を吸収した程度ではたいして…」
「たいして、なに?」
「なんでもございません。さて、いつまでもこのような下等生物に付き合っている時間はありません。我が主は既に巻き込んでしまった者に対しての責任は果
たしたと断言出来ましょう。早く参りましょう」
「…そうね。それじゃ、あんた、私たちは行くわ」
そう言うと、ヤハウェはサタンに抱えられて、飛んだ。
「うわ…っ」
目の前で少女が宙に浮いているのを見て、いまさらながらに自分が神と対面したのだと言うことを思い出すジョシュア。だが、まだ言いたいことは尽きない。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
だが、ジョシュアの手はもう届きそうに無い。ヤハウェが残した言葉だけが、彼の耳に残った。
「ま、今はゆっくり休んだ方がいいわよ」
両腕の中にやわらかい感触が広がっている。不謹慎だが、少し心地いい。主を抱いて飛ぶサタンはそんなことを感じていた。
今後の対応については、主の考えを尊重してはいられない。ことは深刻なのだ。
(まずは民の所へ戻って、主が負けてはいない、と喧伝するべき、か…)
腕の中の主は、いつもよりも軽くなったような気がした。
「ねえ、サタン…」
「どういたしました、主よ」
「少し…下に降りて休まない?」
勘弁して欲しい。またまたしても頭を抱えたい気分に駆られるサタン。いっそ、頭を抱えるためにこの腕を放してもよろしいかと主に訪ねようかと思った、だ
が、
「ちょっと…無理っぽい…」
主の発した言葉がどんどんか細くなっているのに気付く。
一瞬、全身を寒気が走る。サタンは自分が思っていたよりも事態が進展していたことに愕然とする。
「ええ、そうですね。少し休みましょうか」
…ここからでは、おそらく全力で飛んだとしても、民たちの所へ行くのには間に合わないだろう。そして、間に合ったとしても、彼らはもはや…この神を、信
じてくれるだろうか。
サタンは一度だけぎゅっ、と主を抱き締めてから、地上に降りた。
「悪いわね、こんなところで時間取らせちゃって。うーん、おかしいわ。あの人間といたときはまだ大丈夫そうだったんだけど…」
「…ごゆるりと」
サタンは、今まで出来なかった分も含めて、思いっきり頭を抱えた。
「まったく、なんだかんだ言うけどあんたには世話をかけちゃってるわね」
「いえ、そのような…」
「思えば、あんたの名前からして、よく考えたら悪いわよね。もっとちゃんとしたのを付けてあげれば良かったわ」
「よく考えなくても悪いですが」
「まったくー…」
笑みを浮かべてくれる主の姿を眺めながら、サタンは覚悟を決める。
こうなれば自分の残った力をすべて託すしかない…自分と主では、維持するために必要な力が桁違いだから、おそらくは双方ともに消滅するのが落ちなのだろ
うが、それでも何もしないよりは…
「…って…」
と、そのとき、砂漠の向こうから声が聞こえてきた。
とっさに構えるサタン。この場で彼らを追ってくるものは、徹底的な止めを刺しにくるであろうこの地の神々…
「あれ、さっきの人間じゃない?」
ヤハウェが言う、構えを解くサタン。
「…思っていたよりも、近くまでしか飛べなかったようですね」
まさか、人間に追いつかれるとは。
「…私、太ってないわよ」
「ええ、我自らの手で確認致しました」
必死にこちらへ向かって走り寄る少年の姿を二人でぼうっと見守る。
「待ってー」
ジョシュアの声が聞こえる。
「なんだか間抜けな声ね」
「ええ、人間ですからねえ」
主の気分が少し解れているのを感じて、ほんの少しだけほっとするサタン。
微笑を浮かべる主の横顔を眺めていて…あることに気付く。
「主よ」
「なに?」
「気分は如何ですか?」
「…ん、まあ、ちょっと休んだからかしらね。少し良くなってきたかも」
…主の疲労は、休んだ程度でなんとかなるようなものではない。開いた穴はあまりにも大きく、埋めることは困難なのだ。それなのに、何故か彼女は回復を感
じているようなのだ。
「まさ…か…」
主が放った一撃はどのようなものであったのか、あの人間はどのような体質であったのか、そしてそれはどのような作用をもたらすのか…全ては推測に過ぎな
かったが、それでも、サタンにはようやく見えてきた命綱のように思えた。もしかするともしかするかもしれない。
「主よ、少々お待ちあれ」
そう言うと、サタンは再び舞い上がり、ジョシュアの眼前まで全速で向かった。
「う、うわっ!?」
「人間よ、来るがいい」
有無を言わさず、ジョシュアの腕をつかむ。サタンはそのまま遠慮せずに飛び上がり、瞬時に主の下へと降り立った。
「主よ。この者にお触れください」
「は?なんで?」
「なんででもです」
サタンの言いたいことが良くわからずに困惑するヤハウェだったが、言われるままにジョシュアの腕に手を伸ばした。ジョシュアは今しがた思いっきり引っ張
られたことによって痛みを感じていた腕を、今度はヤハウェに触れられて、彼女以上に困惑していた。
「あ、あれ…?」
「え?な、なに?」
自分の腕に触れただけでなにやら驚いた顔をしたヤハウェの姿に、ジョシュアも驚く。
「主よ、貴方が最後に放たれた一撃は、貴方の残された力を集合させただけのものではなかったのです。貴方は、自分を維持させるために必要な力も、攻撃の
ために使用してしまったのです」
「え…ちょっと、それじゃ…」
「そうです、その力をこの人間は吸収し…これはおそらくこの人間の体質によるものなのでしょうが、貴方を維持する力は、この人間の中に補完される形と
なってしまったのです」
二人の会話の意味が良くわからずに、困惑の度合いを深めるジョシュア。だが、自分の存在が、この二人にとっても重要なものだと発覚したことだけは確かな
ようだった。
「まさか、それって…」
「…主よ、今の貴方は、この人間から離れれば、消滅します」
ヤハウェの顔面が蒼白となった。
サタンは既に先ほどから幽鬼の如き暗い面持ちだった。
ジョシュアは相変わらず事態が飲み込めずに呆然としていた。
「えと…その、僕は…一体?」
沈黙に耐え切れずに、ジョシュアが訊いた。
「人間、我が主をはじめとして神々は、この世に顕現するために力を必要としているのです。それは貴方たち人間がその神を信じることによって得られる力…
その"人の力"とでも呼ぶべきものによって、神々はその身を維持しているのです。当然、信じる人間が多い神、強く信じられている神ほどその力が強くなりま
す、その結果、我が主が放った攻撃のような、特殊な能力の使用に必要な力…これを"神の力"とでも呼びましょうか―そうした様々な用途に用いることの出来
る力を神々は休息するだけで自然と得ることが出来るのですが―その力も多く得られるようになるのです」
サタンはジョシュアにもわかりやすいように、言葉を選んで簡潔に説明しようとする。だが、いかんせん突飛な話なので、理解するのに苦労する。
「我が主は先ほどの戦いにおいて、その"神の力"を使い果たしてしまったのです。これはいわば、貴方たち人間で言えば体力が疲弊しきってしまった状態と
考えればいいでしょう。確かに困った状態ですが、人間の疲労同様、休息すれば回復するものです。しかし、我が主はそこでやめておけばいいものを、自らの中
に保存されていた維持のための"人の力"までもを攻撃のために用いてしまったのです。これは…貴方たち人間で言うと、少々極端な例えかもしれませんが、
言ってしまえば腹を割いて、中の内臓を引きずり出して相手にぶつけるようなものです」
「そ、そんな滅茶苦茶な!」
「そうです、滅茶苦茶なのです。今回我が主が戦った相手のように、現在大量の人間に強く支持されているものならば、そうしてもすぐに新たな"人の力"が
流れ込んでくるために、そのような無茶も少々は許されるのですが、今現在、様々な意味で崖っぷちにあらせられる我が主のような神にとっては、文字通りの自
殺行為となるのです」
歯に衣着せぬサタンの物言いに、ヤハウェは腹を立てたが、いかんせん事実なので口答えできない。
「ところが、その内臓攻撃を偶然通りかかった下等生物…すなわち貴方が飲み込んでしまった」
「いくらなんでも、その例えは例えになってないと思うよ…」
それに気持ち悪い。ジョシュアが少し嫌な顔をする。
「もしも、我が主の作戦通りにこの攻撃が狙い通りの使い方をされていたら…もしくは―この可能性が一番高かったと思いますが―相手にも当たらず、貴方に
吸収されることも無ければ、今頃我が主も、その被造物である私も既に消滅していたことでしょう」
…認めたくないことですが、と、露骨に嫌な顔をしてサタンがさらに続ける。
「この攻撃を何故貴方が吸収できたかはやはり不明瞭です。その主成分が"人の力"故に、もとより人間に無害なものだったのか、それとも貴方が特殊で、こ
のような力を貯蔵するのに適した性質を持っていたのか…とにかく、貴方は我が主の存在基盤とも言うべきこの力を飲み込んでしまった。さらにそれのみで終わ
らず、貴方の中に吸収された、我が主を維持するために必要な力は、本来の主人である我が主の身を離れてなお貴方の中で活動を続けており、我が主と貴方があ
る程度まで離れない限り、今まで通りに我が主の存在を維持してくれているのです」
ジョシュアは頭の中で言われたことを整理しながら、一つ一つにうんうんと頷いてみせた。
「そっか…それじゃ、ヤハウェは…」
「そ、そんな目で見ないでもらえるかしらっ、私はあんたなんかいなくても大丈夫だったはずなのよ!自分のことを、私の命の恩人だなんて思っているとした
ら、思い上がりも甚だしいっ」
「そ、そんなこと思ってないって」
ふん、と頬を膨らますヤハウェ。
「…我が主よ。御気分にお変わりは御座いませんか?」
「ん?なによ…んー、認めたくないけど、こいつが来てからはまあ、気分は悪くないわね」
「決闘前と変わらないように、ですか?」
「まあ、そうね」
そのヤハウェの言葉を聞いて、少し考え込むサタン。
「…もしかしたら」
推測ですが、と、前置きして言う。
「本来ならば、"人の力"はその神を信奉する人々の数や意識によって変動するもの…失敗続きで、最後の最後に賭けた大博打にも敗北した我が主は…あまり
大きな声ではいえませんが…仮に決闘終了後にその御身に"人の力"を変わらず有していたとしても、今頃は…」
「…きれいさっぱり消えちゃってた、って言いたいの?」
不機嫌、というよりは、不安感をにじませた声で、ヤハウェが訊ねる。
「いえ、そこまでは言いませんが、おそらく今ほど安定した状態でいられたかどうかは疑問です」
「……うん」
その言葉を認めて、小さい声で頷くヤハウェ。
「しかし、この人間は、何故かはまったくもって理解できませんが―その身に宿した"人の力"を一定値で安定化させていられるようなのです」
信じられない、という表情で話すサタン。
「えと…それって、凄いの?」
まだ空気がつかめないジョシュアだったが、おそるおそる質問してみる。
「…それはまだ未知数です。仮に貴方が出来るのが、その身の中の力を一定値にとどめるのみであるとするならば、どんなに熱心な信奉者の数を増やそうとも
無意味になってしまい、我が主の様な発展途上―で、あればいいのですが―の神にはそれ以上の成長を不可能にしてしまうのであれば、正直便利とはいえませ
ん」
ですが、と言葉を区切って
「今回のように、消滅の危機にさらされている神にとっては、まさに命綱ともいえましょう」
と結論付けた。
「しかし、まだまだわからないことも多いのが難点です。例えば、貴方の身の中の力とは別に、我が主御自らの中に再び"人の力"を吸収させることは出来る
のか、また、貴方の中の力は本当に、永久的に衰えることは無いのか、ただ単に本来の力の衰えとの間に時間差が発生しているだけ、という可能性もあるので
す」
「なんだかややこしいなあ」
と、ジョシュアが唸った。
「そうよ、だから、さっさとあんたが私に力を返してくれればいいのよっ」
と怒鳴るヤハウェ。もっともだ、と頷くジョシュア。
「そうだね…で…その…どうやって返せばいいの?」
一同沈黙。
「とっ、とにかくっ!どうやってでもっ!」
「そんな無茶なっ」
勢いで怒鳴るヤハウェ。困惑するジョシュア。
「サタン、あんた、なんかいい考えは無い?」
「そうですね…我が主が御自らの力を攻撃のために放ったのに倣って、この人間にもその内部の力を吐き出させる、というのが今考え付く唯一の手段でしょう
か。もっとも、一度はこの人間に"神の力"を授けて、力をどのようにして自身の外部に射出させるかを覚えさせなくてはいけないでしょうが…」
「…今の私にそんな力、ほとんどないわよ。大体、人に力を授けるなんて…」
ジョシュアには一瞬、ヤハウェが暗い表情を見せたかのように見えた。
「えと…僕にはまだよくわからないけど、出来ることがあるならやるよ」
「当然よ」
冷たくぴしゃりと応えられる。ジョシュアは思わず苦笑いを浮かべた。
「とりあえず今は、回復のために休める場所を探した方がいいですね。我が主は当然として、私も飛んだだけでかなりの力を使ってしまいましたから」
ふう、と溜息をつくサタン。
「でも、油断は禁物ね。状況が相当やばいのは変わっていないんだから。まったく、これからとんでもなく苦労させられそうよ」
やれやれ、とヤハウェ。さすがのジョシュアとサタンも、誰のせいで?という視線を彼女に向ける。
そして、彼女の強がりで事実誤認で自分勝手な発言を待ったのだが、
「それでは、その苦労を今この一瞬で終わらせてやろう」
その場に響いたのは、三者がそれまで聞いたことの無い、男の声だった。
第8章
ジョシュアはもちろん、ヤハウェやサタンも気付いていなかったのだが、砂漠に咲いた一輪の太陽が消え去ってからというもの、ヤハウェたち3人の姿は絶え
ずこの地の神々から監視されていた。
多くの神々は、当初、みっともなく生き延びた異郷の神を嘲笑するため、そして、大いに弄んで止めをさす為にその場に現れていた。だが、彼らの君主・エル
はどうやら彼らが手を出すのを喜ばしくは思っていないようだったので、耐え忍ぶかのように押し黙ったのだ。
「あらあらまあまあ」
哀れ敗走した神とその従者が、偶然通りかかっただけの人間を助けてなにやら慌てている様は、多くの神々からすれば面白くもなんとも無いものであり、彼ら
は何故自分たちの王がこんなものを楽しそうに眺めているを疑問に思った。
「…あの人間、変わってるわね」
エルや、彼女を中心にして取り巻いている戦いたくてうずうずしている神々の輪から少し外れた所にいるアナトが言った。
「うん…あの人のおかげで、あの子、助かったみたいだね」
良かった、というような表情でバアルが応える。
「あたしやあんた…それにセンセがあの人間を手に入れることが出来れば、結構便利かもねえ」
と、アナトは視線をエルの方にずらした。
「もう、アナトちゃんは先生のこと嫌いすぎだよ。先生は自分のことよりも私たち生徒の事を考えてくれている、とってもいい先生だよ?」
はいはい、と形だけの同意。
「…で、センセはともかく、他の短絡思考の連中はそろそろ我慢できなくなっちゃってるみたいねえ」
見れば、エルの周りでは神々が、ヤハウェたちに止めをさす許可を求めていた。エルが少々困惑しているのがアナトにはちょっと愉快なようだった。
「と、止めなきゃっ」
一方のバアルは、彼らを押し止めるために神々の輪の中に向かう。仕方なしにその背中を追うアナト。
「ですから、あのような者たち、生かしておく必要は無いと言うのが我々の総意なのです!」
「左様。例え我らが王が感じておられるように、あの人間が特殊な力を得たのだとしても、我らにとっては価値の無いもの。ここで破壊しておくことこそが正
しい決断かと」
神々が、追い詰めるかのごとくエルに言葉を投げかける。
「そうですねえ。困りましたねえ」
さすがのエルも、ほとんどの神々が異議を申し立ててくるのには困ったようで、言葉を濁す。
「私としてはもうちょっとことの成り行きを見守りたいんですけど…」
その輪の中に割って入ったバアルだったが、とてもではないが「せっかく生き延びたんだから、見逃してあげよう」というような意見が通る空気ではないとい
うことに気付いて、話を切り出せずにいた。
「ならば!」
そんな中から、ひときわ大きな声が聞こえてきた。
「あ…ラシャプさん」
「まだいたのね」
場が静まり返り、誰もが自分の言動に注目しているのを確認してから、ラシャプは再び口を開く。
「このラシャプが皆を代表してあの神を追撃させていただこう」
自分勝手なその言葉に、周りの神々は不満の声を上げる。バアルの隣ではアナトがあきれた顔で「なにが、ならば!なのよ」と苦笑していた。
「ええい、待たれいっ」
周囲を制止させんと叫ぶラシャプだが、あまりに根拠不明な主張故にその言葉に従うものはいなかった。
「え、ええと、ラシャプさん?」
見かねてエルが声をかけた。それを受けて再び沈黙する一同。
「先生としては、ヤハウェさんたちを攻撃すべきかどうかについてもちょっと悩んじゃったりしちゃってるんですが…それはそれとして、こうして皆さんがヤ
ハウェさんを攻撃したがっている中で、貴方が代表して攻撃しに行くべき、っていう理由は何かあるんですか?」
エルの質問を聞いて、周りの神々もそうだそうだと声を上げた。
「はっ!確かに私でなければいけないという理由は無いのですが…」
周囲から罵倒の声が上がる。それらに黙れ黙れと声を張り上げながら、ラシャプは無理矢理続ける。
「私は…寛容な精神をもってして、奴らめにもう一度だけ機会を与えてやろうと思っているのです」
ラシャプの口から出た意外な言葉に、バアルが驚く。もっとも、隣のアナトは明らかにその言葉を信用していないようだったが。
「それは大変素敵な考えですね。先生も同感ですよ」
「有り難いお言葉…ところで君主よ、我らとあの神が交わした約束はご存知でしょうか?」
「ええと…ヤハウェさんがバアルさんに勝った場合、ヤハウェさんを信仰する人たちの入植を許可する…というものでしたっけ」
「ええ…そんなところです。その結果、あの神はバアルに敗れ去ったわけですが…ここでもう一度だけ機会を与えてやろうというのです」
その言葉を受けて、ううん、と少し考えるエル。
「…つまり、貴方がヤハウェさんと決闘したい、というわけですね?」
大きく頷いてラシャプが応える。
「はっ、このラシャプの実力は、おそらくバアルとも伯仲。それ故、万が一にもあの者どもが勝利することはないでしょうが、一度は敗北している者たちに与
えられる機会など、これで充分といえるでしょうっ」
ひときわ大きな声で言い終えると、ラシャプは自信満々、といった表情でエルの返事を待つ体勢に入った。
「結局の所、あいつが戦わなきゃいけない理由も、もう一度チャンスをあげるべきっていう根拠もなんもあげられてないわね」
アナトがぼそっと突っ込んだ。バアルが苦笑いする。
神々はざわざわと話し合いながら、腕を組んだり、額に指をあてたりして考え込んでいるエルの動向を見守っていた。
「…そうですねえ」
やがて、考え込むのをやめたエルが、ゆっくりと口を開いた。
「それじゃあ、ここはラシャプさんの意見を尊重しましょうか」
その言葉に、神々がざわめく。バアルやアナトも、ラシャプの主張が通ったことを素直に驚いていた。
一人、歓喜の表情のラシャプが叫ぶ。
「ははーっ、有り難きお言葉ーっ!」
それを無視して、神々はエルに納得の出来る説明を求めている。
「もうっ、皆さんお静かにっお静かにっ」
またも押し黙る一同。
「確かにラシャプさんの言ってることは説得力に欠けます。先生、ラシャプさんに授業で教えたはずのろんりてきせいしんが伝わっていなかったのを知って、
正直ちょっと残念です。ですけど!ヤハウェさんたちにもやさしくしてあげよう、というその心には素直に感動しました。よって、二人の決闘を許可しようと思
います」
納得できない、という神々の声が上がる。だが、エルが決定を下したのだ。彼女の発言を重視する神々にとってそれは無視できることではない。神々の中に自
然と仕方ないではないか、という声が上がるようになり、やがて彼らは無言でエルの決定―ラシャプの戦闘行為―を認めた。
一方、最初からこの口論自体には蚊帳の外だった二人、
「まったく…あんなこと言っておきながら、あいつは別にチャンスなん」
「ラシャプさんて、本当はやさしい人だったんだねっ」
「てっ!?」
「どうしたの?アナトちゃん」
「あ、あのねえ…」
呆れた目でバアルの顔を眺めるアナト。
「ラシャプはただ単に戦いたくて仕方が無かっただけよ」
「で、でも、ヤハウェちゃんにチャンスを…って」
「んなもん、そう言えばセンセが喜ぶからってだけでしょ。もっとも、そのセンセも果たして本気でラシャプの寛容な精神とやらに感動したのかは疑問だけど
ね」
「もー、ラシャプさんはまだよくわからないけど、先生は優しい人だってば」
「はいはい」
二人の頭上を、ラシャプが大いに張り切って飛んでいった。それを見つめるその他の神々の目は、いまだ不満の色を衰えさせない。
「まったく、どいつもこいつも最近争いが無いからって戦いたくて戦いたくてウズウズしてるみたいね。他所はどうか知らないけど、戦争神が多いとこ特有の
苦労かもね」
「アナトちゃんも戦うの大好きだけど、今日はいいの?」
「うん、あたしはパス。あの程度の敵なら、数十人はいないと殺し甲斐が無いわ」
「あ、あはは、そっかあ…」
物騒な言葉に苦笑するバアル。
「…で、実際に戦ってみたあんたとしてはどう?あの神、ラシャプに勝てると思う?」
「うーん…今のヤハウェちゃん、私と戦ったときよりも疲れてるだろうし…というか戦い始めたときに感じた強さからして、ラシャプさんより強いという感じ
はしなかったけど…」
「全然駄目じゃん」
「う、うーん…でも、でもね、あの子の目…戦っている最中も私じゃなくて、もっと遠くを見据えているような、あの目…もしかしたら…」
雷鳴による光と音が怒涛の如く訪れ、バアルの言葉が途切れる。
ラシャプが最初の一撃を放ったのだ。
第9章
ジョシュアには、もはやなにがなんだかさっぱりわからなかった。
聞き覚えの無い声がしたと思ったら、次の瞬間には辺りが真っ白になっていたのだ。最初は、実は自分はヤハウェが敗れ去ったあの瞬間のとばっちりでとうに
死んでおり、今までのは死に際に見た夢だったのではないかと思った。だが、どうやらそうではないと感じると、思考回路を総動員して「何が起きているのか」
を考えた。こんな状況は、今までの経験の中に一つしかない。そう、ヤハウェが自分の真上に太陽ごと落ちてきた、あの時だ。つまり、これはヤハウェやサタン
のような神の仕業で、こんなことになった理由は…今は考えている暇は無い。とにかく、こんなものに巻き込まれていて安全なわけがない。なんとかしなけれ
ば、なんとかしなければ。
「う、うわあっ、あ、わっ」
だが、必死に考える思考面とは別に、肉体の方はどうにも機敏に動くことは出来ない。何せ神(だと思われるもの)から攻撃(だと思われるもの)を受けてい
るのだ。ただの人間である―少なくとも、ちょっと前までは―ジョシュアが適切な対応を取れるはずも無い。
地面に転んで、這いずり回り、必死に逃げなくてはいけない、ヤハウェたちの無事を確認しなければいけない、などと考えていると、すぐに辺りを覆っていた
光が消えていった。
「あ、あれ?」
…先程、こんな状況は今までに一度しか経験したことが無い、と考えたが、それは訂正。こんなものを見たことなら、何度だってある。なんのことはない、雷
だ。聞こえてきた男の声にしてももしかしたら空耳だったのかもしれない。だとすれば、自分はとんだ恥晒し…自分に再度訪れた生命の危機という状況を否定す
るために、必死で今のがただの雷であったと思い込もうとするジョシュア。もっとも、空耳だったはずの男の声が再びその場に響いたことで、その儚い希望は完
全に断たれることになるのだが。
「は、はっ!異郷の弱小神よ!我が声を耳にせよっ。私は雷神ラシャプ、貴様に決闘を申し込む者だ!」
ジョシュアの耳に、その声はまさに神らしく聞こえた。恐ろしかった。
おそるおそる、先程までヤハウェが立っていた方を振り向くと、ジョシュアとほとんど同じような格好―地面に尻餅をついたヤハウェが困惑の表情を見せてい
た。
「なっ、な、な、な、なに、なにっ!?」
「っ!落ち着いてください、我が主よ!カナンの神です。我らに止めを刺さんと襲い掛かってきたのです」
だが、サタンにしても急に攻撃を受けたことに対応し切れていないのは明確だった。
「け、決闘!?決闘てなによ?偉いの?」
いまだ正気を見失っているヤハウェの姿を見て、嘲りの笑みをその面に浮かべてラシャプが続ける。
「そう、決闘よ。今のは挨拶代わりだ。我が力の一端をお見せしようと、貴様らではなく、空へと我が雷を放って見せたのだ。どうだったかね?」
は、はっ!と笑いながらラシャプは言う。
「もっとも、ちょっとしたハンデは必要だろうからな。そこにいる残りの二人も戦力として考えていいぞ?その代わり…そいつらも容赦無く攻撃させてもらう
がなあ」
その言葉の意味を少し考えて、ジョシュアが蒼褪める。
「けっとっ、決闘ってっ!な、なんでこの私があんたなんかとっ!」
ヤハウェの声は上ずっている。ジョシュアの目にも、とてもじゃないが頼りになるとは思えなかった。
「これはな、チャンスなのよ。みじめったらしく敗北して、生き恥をさらす貴様が、綺麗さっぱり戦いで死ねるのだからな。ほうら、喜んでいいぞ?」
「ひぁ、そ、そんなの喜ぶわけ無いじゃないっ!」
「おかしな奴だ。戦いに負けてなお生に固着するとはな」
「私は…勝つために戦ったんじゃないもの…っ」
自分を信じてくれた人間たち、自分を頼ってくれた人間たち、自分を必要としてくれた人間たち、彼らが生き延びるために、戦ったのだ。
「だって、約束したものっ」
「そうかそうか。まあいい、3人いっぺんに消し去ってやろう。ただし、こちとら久しぶりの戦いなんでね、出来る限りじっくり楽しませてもらうが…!」
今まで以上に威圧的な声で、ラシャプが宣言する。
ジョシュアはあまりの恐怖に立ち上がることすらままならない。ましてや、あの神は自分を殺すと宣言しているのだ、冷静でいられそうにも無かった。
「我が主よ、ここは私が食い止めましょう。一度お下がりください」
「な、なに言ってるのよっ、あんた、さっき飛ぶのにも疲れてるって言ってたじゃないっ」
「ですが、それが最良の策です…我が主さえ生き延びれば、私など、幾らでも復活できましょう…」
「ば、馬鹿言ってないでっ!も、もっとほらっ、いい考え!いい考え!」
ヤハウェとサタンの声が聞こえる。
ジョシュアの足は相変わらず恐怖に打ち震えていた。
だけど、瞳の中に刻み込まれた、民のために、約束を果たすのだと叫ぶ、少女の姿が忘れられない。
その少女を嘲笑する男の声が、笑みが、許せない。
「ヤハウェっ!」
ラシャプの腕の中で、ばちり、ばちりと音が鳴る、今にも第二弾が放たれるのは明らかだった。
その一撃が狙うのは、ヤハウェ。
「ではっ!」
天に向けて掲げられる雷神の右腕が、
「いくぞっ!」
轟音とともに、振り下ろされる。
ジョシュアが走る―考える、あの神がヤハウェを狙っている、放たれる雷の威力、あの神がなんと言っていたか―走る、ヤハウェがまだ立ち上がれていないの
が見える、それを突き飛ばし
「なんと?」
「う、あっ、がっ!」
ラシャプの雷撃を、ジョシュアが受け止める。
全身を熱と衝撃と痛みが駆け抜けていく。絶叫しているはずなのに、声が口の外へ出て行かない。
「に、人間っ!?」
ヤハウェが驚愕の表情で立ちすくむ。
「さ、あ、がっ、サタンっ!」
ジョシュアが痛みに耐えながら、なんとかその名を呼ぶj事が出来た、その瞬間には、既に黒服の少女は動き出していた。
「つかまってください、我が主よ」
差し出された左腕に、遠慮なくしがみつくヤハウェ。その確かな感触を確認すると、サタンは即座にジョシュアの方へ向き直った。
「…なんだこいつは?偶然通りかかったというわけではなかったのか?」
視界にすら入れていなかった人間の思わぬ行動、ラシャプにはそれが何を意味するのか理解できなかった。僅かな困惑…そこに隙は生じる。目の前で苦痛に耐
えるジョシュアに注視してしまったために、ヤハウェを救出しようとしたサタンの行動に彼は気付かなかったのだ。
「さ、サタンっ、あの人間もっ!」
「わかっています…っ」
サタンの右腕が、ジョシュアの背中を掴む。思ったよりも熱くない。どうやら、雷撃自体は既に引き始めているらしい。もっとも、ジョシュアの全身をあまね
く徘徊する痛みはまだまだ消えそうに無かったが。
「むっ!?」
ラシャプが気付く、が、遅い。
「いき、ますっ」
両腕に主と下等生物を抱いて、サタンが全力で飛び上がった。
「逃がすかっ!」
ラシャプの声、そして、その声よりも早く雷光が飛んだ。
「しっかり、つかまっていてください」
そう、一言だけ言うと、サタンは逃走するのに全神経を傾ける。
もはや力は残っていないため、あまり高くは飛べない。だが、それが幸いした。ラシャプの放った雷は、地上に転がる金属片などに命中し、弾けた。サタンが
地表すれすれを飛んだために、結果としてラシャプの雷撃はその命中力を著しく落としたのだ。
「ちっ…」
舌打ち、だが、この程度のことで焦るほどラシャプは単純ではなかった。既に、次はどう遊ぼうか、どうすれば楽しめるか、そんなことを考えていた。
一方のサタンは、ラシャプの姿がジョシュアの肉眼では確認できなくなる程度まで離れた辺りで力尽き、地上に落下する。
「ひゃ、ひゃあっ」
落下のショックにヤハウェが声を上げる。ジョシュアもサタンも、声を上げられるほどの元気はないようだった。
落下後、むっくりと立ち上がったサタンの姿を見届けてから、ヤハウェはジョシュアに駆け寄った。
「ちょ、ちょっとっ!大丈夫?大丈夫なの?あんた、なんだってあんなことしたのよ!?」
ジョシュアの肩をおもいっきり揺らす。がくがくと動くジョシュアの顔は、再び苦痛に歪んでいた。
「や、やめっやめっ、もうだいじょぶだって!」
「ほんとね?」
少しだけ安心した顔をするヤハウェ。
「で、でもっ、なんだってあんなこと…」
「適切な判断…だったのではないかと」
問い詰めるヤハウェの声に、ジョシュアの代わりにサタンが応える。
「あの神は、じっくり楽しませてもらう、などという陳腐な台詞を口にしていました。故に、我が主を狙ったとすると、一撃でことを終えるとは考えがたい。
この人間が受けたように、致命傷ではないものの痛烈な攻撃を何度も放つことによって、自身の戦いへの欲望を満たそうとしていたのは必至だったのです。出来
れば受けたくない一撃でしたが、あの距離では全員が回避するのは不可能。その場合、誰がそれを受けるのが一番リスクが少ないか…」
一番戦力になりそうに無い、しかも体力的な疲弊が一番薄い人間、つまりジョシュア。
「それだけではなく、あの人間が攻撃を受けてくれれば、あの神にとってもっとも意外な展開であるため、私が我が主を連れて逃げる隙も生じます。あの人間
が自発的に動いてくれなければありえない状態であるため、私が思いついてもどうしようもなかったのですが…」
と、一瞬ジョシュアの方に顔を向けて
「あの人間としては、よくやってくれたと思います」
「僕だって、いちかばちかだったんだけどね」
苦笑いを浮かべるジョシュア、その表情からは隠せそうも無い疲労が伺えた。
「でも、僕が動かなかったら、どうする気だったの?」
「もちろん、突き飛ばして盾にする気でした」
「…」
さすがに笑えなかった。
「で、これからどうするのよ?」
ヤハウェが、今飛んできた方向を眺めながら言う。当然だろう、あの神がこの程度のことで諦めるなどとは考えられない。
「…私は、今ので力をほとんど使い果たしました。残念ながら、あとは人間と同じ程度のことしかできないと考えてください。我が主は如何ですか?」
「一応、ちょっと休んだから…一回ぐらいは雷を撃てると思うわ」
ヤハウェが自分の腕を眺めてそれを確認する。
「ヤハウェも雷を出せるんだ?」
「当たり前でしょ。私に出来ないことなんてないもの」
えへん、とない胸を張るヤハウェ。
「…まあ、雷以外はほんのちょっとだけ付け焼刃だけど」
「そのことですが…」
サタンが割り込んでくる。
「な、なにっ?私が付け焼刃なのを追求するのっ?」
「いえ、そちらではなく、我が主の雷を使う力のことです」
それならいいのよ、という顔になるヤハウェ。
「現在、あの神に対して、こちらが勝っているのは唯一、人数だけかと思っていましたが、もう一つだけありました。雷のコントロール能力です」
「え…?」
「あの神は、私が逃走を図った際に、全部で五回、雷撃を放ちました。ですが、そのいずれもが外れ、結果私は逃走にかろうじて成功しました。つまり、あの
神は雷を自然の雷と同じようにしか運用できないのです」
サタンの説明に今ひとつピンと来ないジョシュア。彼にもわかるようにか、サタンが説明を続ける。
「それに対して我が主は、放った雷をある程度までコントロールすることができます。形、移動速度、ルートを任意に決められるのです」
「そ。人間、あんたにぶつかったあれだって、私が雷の形を変えたものの一種なわけよ」
ジョシュアは自分の真上で輝いていた太陽の姿を思い出す。
「でも、あれはどう見ても君が思うように動かしていたようには見えなかったけど…」
べしっ、と拳が飛んできた。
「う、うるさいわねっ、あれは…私を中心に発生させたじ、自爆攻撃で…撃った瞬間に飛ぶ力もなくなっちゃったから私と一緒に地上に落っこちちゃったの
よ」
恥ずかしそうに説明するヤハウェ。
「そ、そうなんだ…それで、雷そのものの威力は、ヤハウェとあの神…ラシャプだっけ、のどっちが」
「当然向こうです」
ジョシュアが言い終える前にサタンが答えた。
「それじゃ、こっちの方が雷のコントロール能力はあっても、撃てるのは一回だし、威力は弱いし…」
またしても、ヤハウェの拳が飛んできた。
「…こちらがあまりに絶望的な状態なので、少しぐらいは希望を持つのもいいかと思って言ってみたのですが」
「なんの救いにもなってないわよ」
「ええ、そうです…っ」
次の瞬間、一行の背後にあった岩が砕け飛んだ。
「き、きた!?」
「いえ…またしても、挨拶代わりのようですね」
砕け飛んだ岩の方を見ると、周りの岩は砕け飛んでも、攻撃の中心地点にあったと思われる部分だけが寂しげに残っていた。そして、そこに刺さった一本の
矢。
「おそらく、あの神は元いた位置からほとんど動いていないはず…しかし、そこから放たれた矢は、我が主、人間、私の全員にかすりながらも、直撃はせず
に、あの岩にあたった…」
「ぐ、偶然じゃないの?」
矢が自分にかすったということに気付いて、蒼ざめるヤハウェ。
「だといいんですがね…見てください、この矢、僅かですが雷が込められています」
「つまり…その気になれば…」
「百発百中、だということでしょうね」
全員が沈黙する。もはや、希望は無い。彼らが敵に回した神は<矢の王>ラシャプなのだ。
「…こいつを使うと、どうしても一撃で終わるからなあ…出来れば、もっとゆっくり詰めてやりたいんだが」
ヤハウェたちの方へ駆けつつ、ラシャプが呟く。
腕の中には大量の矢。そのどれもが、当たれば強力な雷撃を発生させ、そこから生き延びたとしても悪夢のような疫病が襲ってくる。まさしく一撃必殺、ラ
シャプの最大の武器なのだ。
ラシャプの目がしっかりとヤハウェたちを捕らえる。どうやら、さらなる逃走をはかるようだ。
もはや飛ぶ力すらないというのに、無駄なことだ。
「…一人、潰すか」
この調子ではあまり長く楽しむことは出来なさそうだ。とりあえずここで一人に止めを刺して、それからどうしようか考えることにする。
「ふんっ」
その身を大きく跳ね上がらせるラシャプ。
上空にて弓矢を構える。雷撃はさすがに、連続して使うことは出来ないので、一撃で仕留めるべく、一本の矢に限界まで力を込める。
「狙いは…黒服でいくか」
一番高い所まで上がったところで、最大限に引っ張られた弓の弦を…
「さらばだ」
放つ。
「二発目がきますっ!」
サタンが叫ぶ。
その瞬間には、ラシャプはまだ跳ね上がろうとしているだけだった。だが、明確な殺意だけは、ラシャプが彼らの一人に止めを誘うと決意した瞬間から、既に
発せられていたのだ。もっとも、それを感知できたのは唯一人、その標的とされた少女だけだったが。
「逃げなきゃ!」
人間がなにやら不可能なことを叫んでいるのが、彼女には不愉快だった。
サタンにしても、矢がどこから飛んでくるのか―誰に当たるのか―についてはまだわからない。可能性として一番高いのは、先ほどの行動が印象的だった人
間、次に自分、最後に主。おそらく、敵はまだ「じっくり楽しむ」ことを諦めてはいない。だが、あの矢は明らかに致命傷をもたらす…故に、主は無い。少なく
とも、サタンはそう信じたかった。
(だとすれば、やはり私か人間…もしかしたら、また逃走されるかもしれない、と考えて、私を潰す可能性の方が、高い、か…?)
もっとも、標的がわかった所でどうしようもないのだが。
「や、ヤハウェ!雷、撃てるんだよね?」
「だ、だから一発だけよ!一回撃ったら、次の攻撃で終わりよっ」
泣きそうな顔で叫ぶヤハウェ。
「でも、今来る攻撃だって…受けるわけにはいかないよっ」
「じゃ、じゃあ、どうすればいいのようっ!」
ジョシュアがサタンに向かって叫ぶ。
「サタン!誰が狙われているの!?」
その声が五月蠅くて腹が立ったが、サタンは仕方なく答える。
「おそらく、貴…いえ、私―」
「わかったっ!」
…可能性は二つあった、何故その片方の可能性だけを答えたのか、サタン自身にもわからなかった。自分でも気付いていなかったが、本当は、彼女とて焦って
いたのだ。本来ならば、そのよう
な賭けに出るのは得策ではない。だが、所詮は人間の質問への回答、なんと答えようと意味は無い。気にするまでも無い、気にするまでも無いのだ…ジョシュア
がヤハウェに早口で何かまくし
立てているのがサタンの目に映る。
と、次の瞬間には、サタンの周りの空気がまるで時間の進み方が変容したかのように、遅くなった。
目の前には―青空の中にぽつんと佇む黒い点が見えた。
その点は、ゆっくり大きくなっていく。サタンはそれがどんどん大きくなっていくのを見て、それが矢であり、大きくなっているのではなく、猛撃な速度でこ
ちらへと向かっているのだと気付いた。そして、その点はいつの間にやらしっかりとした矢の形を作り出していき、それを確認したときには、それは、既にサタ
ンの胸元に―
「―っ!」
「―っ!」
サタンの耳元に二つの声が届く、どちらがどちらの声だったのか、また、どちらも何と言っていたのかは聞き取れなかった、だが…
「はっ!?」
サタンの胸元で火花が巻き上がる。強力な力の奔流、サタンは自分が吹き飛ばされるのを感じた。
「…これは…」
その二つの声は自分の命を救った声だった。
サタンの胸元、突き刺さるべきだった矢は、その矢に含まれていたのと同じ、雷の力によって受け止められていた。
「ま、間に合った…」
ヤハウェの声が聞こえる。
認識する。ジョシュアが咄嗟に考えたのは、ヤハウェが雷を小さく発生させ、それをすんでのところで受け止めさせることだったのだ。危険な選択だったが、
それは時間が無かったので仕方が無い。
ヤハウェは、雷の形、発生場所、移動を操ることができる…それを利用して、サタンの胸元に発生させた雷は、いまだに動くことなく、あたかもサタンの胸に
矢が突き刺さったかのごとき状態で静止している。
「これは…」
好機かもしれない。
サタンは吹き飛ばされてから、倒れこんだまま、動くのをやめた。
心配したヤハウェとジョシュアが駆け寄る。
ゆっくり考える…果たして、この光景を見ているラシャプには、ちゃんと、私が死んでいるかのように見えるだろうか?
ヤハウェとジョシュアの顔がサタンの視界を埋める。
「大丈夫、私は少し休ませていただきます…しばらくの間、なんとしてでも、逃げ延びてください」
小声で言う、どうやら、ジョシュアにはサタンの意図が伝わったらしい。こんな下等生物を信じて、自らの主を託さなければいけない、ということに怒りを覚
える。だが、今はそうするしかない。続いて、主にも声をかける。
二人が一言二言会話を交わしたのを見届けてから、
「…行こう、ヤハウェ!」
ヤハウェの手を握ると、ジョシュアは走り出した。
「サタン、大丈夫よね…?」
ヤハウェが心配そうな声で言う。もしも死んだ振りがバレようものなら、止めを刺されるのは確実だ。
「うん…だから、僕たちがあいつをひきつけないと…」
ジョシュアはそう言って、サタンが倒れている場所からも、ラシャプがこちらの動向をうかがっているであろう場所とも別の方角へ向かって走り出した。
こちらにはもう、雷を出すような力はない。ましてや、唯一といっていい頼りになる存在だった、サタンもいない。
ヤハウェはもはや、希望を失っていた。
(だけど、私がやられたら、サタンだって…)
なんとしてでも、生き延びなければいけない。
「っ!…ウェっ!」
「な、なにっ!?」
いつの間にか、ジョシュアが自分の名を呼んでいたことに気付く。
「…来たっ!」
恐る恐る振り返ると、そこには、
「は、はっ!」
笑みを浮かべた、雷神の姿があった。
サタンを屠ったと確信した―もしくは、生きてようが死んでいようが、どうでも良かったのかもしれない―彼は、標的をヤハウェとジョシュアに切り替え、あ
ろうことか、得意の遠距離攻撃ではなく、近接して彼らを弄ぶことにしたのだ。
「ヤハウェ、次の雷撃を撃てるようになるまで、どれぐらいかかる?」
「…こ、こんな風に、走ってたらっ、休めないからっ、いつまでたっても無理よっ」
ああ、そうか、やっぱり、とでも言うかのように苦笑するジョシュア。本人にそんな意図が無いのはわかっていても、なんだか馬鹿にされたようでヤハウェは
不機嫌になった。
「あ、あんたっ、あいつと格闘でやりあってきなさいよっ、男でしょ!?」
「そんな無茶苦茶なっ!」
ラシャプはジョシュアの倍近い体躯と人間離れした筋肉にその身を覆われていた。たとえ、神の強さが見かけで決まるものではないにしても、あんなのと対峙
したとしたら、次の瞬間にはひき潰されてミンチになる自分の姿がジョシュアにはありありと想像出来た。
「は、はっ!そろそろ追いついてみようか?」
ラシャプが余裕の表情で言う。
まるで、強く抱きしめるかのようなポーズ、あの胸の中で苦悶の表情を浮かべて息絶える自分の姿を思い浮かべてしまう二人。
「う、うっ…」
そろそろ走るのも限界かもしれない、ジョシュアの息が続かなくなる。
「あ、あれ?」
と、そんな彼らの目の前に奇妙な光景が広がっていた。
見果てぬ限りの砂漠に、何本もの大木が生えており、そのどれもが奇妙に折れ曲がった姿を晒しているのだ。
「ここは…」
ヤハウェが、まるで懐かしいものを見たとばかりに呟く。
自分の決闘、第一回戦のステージ。
彼女が、バアルに為すすべも無く敗れ去った、あの場所だ。
「も、もうっ…」
自分は、ここでまた、為すすべも無く―今度こそ、完膚なきまでに―敗北しなければいけないのか、
「そんなの嫌に決まってるじゃないっ」
「まったく…敵どころか、子供を追い詰めているような気分にしかなれんなあ、やはり、最初からバアルになぞ譲るのではなかったわ」
本当は、決闘を渋るバアルを煽ってヤハウェと戦わせたのは自分たちであったことを棚に上げて、そんなことを思う。
「なんとかして、あの弓矢を…」
無理とはわかっているが、それでも、何か方法は無いのかを考えるジョシュア。
あの弓矢がある限り、自分たちの敗北は決定的だ。だが、あれは隙を突いた程度では彼の手から離れることは無いだろう。明確なダメージを与えない限り…
「…あ…この木、まだ消えていない…?」
自分が発生させた木が、未だに残っているのを見て、ヤハウェにある考えが浮かぶ。
「人間、あっちに向かうわよっ!」
「う、うんっ」
今度はヤハウェがジョシュアの手を引っ張って走り出した。
ラシャプはもう、この追いかけっこに飽きたようだ。再び矢無しの手加減雷撃を仕掛けようとしている。
もしもあれに当たったとしたら、少なくとも走ることは出来なくなるだろう。多分、もう二度と。
「も、もっと早く走りなさいよっ!」
「で、でも、もうっ」
さっきから、限界突破してるんだよ、とジョシュアの目が訴えていた、が、当然無視する。
「さて、そろそろ…っ!」
ラシャプの両腕から大量の雷撃が放たれる。
「う、うわあっ!」
叫ぶジョシュア、目を瞑ってなお走るヤハウェ。
ラシャプの放った雷撃の多くが、ヤハウェとバアルが砂漠に生やした木々に命中する。
ラシャプの雷の性質上、それは仕方が無いことであったが、それでもその全てがヤハウェたちに命中しなかったのは、運が良かったから、というしかなかっ
た。
「あ、あそこ、あそこの砂が盛り上がってる所で、飛んでっ!」
「僕は飛べないよっ!?」
「知ってるわよっ!私だってもう無理だしっ!いいから出来る限り飛びなさいっ!」
ヤハウェの無茶な要求。それに応えられるかどうか、ジョシュアにははっきり言って自信など無かったが、それでもやってみるしかない。
背後には、放った電撃を悉く奇妙な木々に吸収されたことに苛立ちを覚えたラシャプが、その手に矢を握って迫っていた。どうやら、矢を飛ばさずに剣か槍の
ように使うことで、じわじわと追い詰めるという行為を楽しんでいるようだった。
「は、はっ!当たると楽しいぞぉっ!」
「楽しいわけないでしょっ!ほら、人間、今よっ、飛んでーっ!」
「こ、こうなったらーっ!」
砂が盛り上がり、ちょっとした丘になっている。その頂上に達した所で、ヤハウェとジョシュアは飛び上がった。飛び上がった、といっても、すぐに地面に激
突するような飛翔であったが。だが、それでも、それは成功したのだ。
「今よっ!」
「えっ…?」
ジョシュアには、ヤハウェが誰に呼びかけたのかわからなかった。
ヤハウェにしても、これは賭けの要素の強い行為だった。
自分が呼び起こした木がまだ残っていたからといって、他に発生させたものたちが残っているとは限らなかったのだ。
「な、なんだとっ!?」
後ろを振り向くジョシュア、その上方、太陽を背にした影―二人と同じく飛び上がったラシャプの姿が見える。今にも眼前に降り立ち、その手にした矢を振る
わんとするその姿、恐れずに入られないその姿が、空中で止まっていた。
「レヴィアたんっ!」
―盛り上がった砂は、突如砂漠に泉が発生したが故に出来上がったもの。その水はヤハウェが発生させたもの。そして、そこには…同じく先の戦闘の際に彼女
が呼び出した、眷属たる海竜の姿があった。
「ぐっ、う!?」
人間の子供並の大きさとはいえ、竜は竜である。その顎に抱かれては神といえども無傷では済まない。
「今よっ!」
今度こそ、そのヤハウェの声が自分に向けられているのだと悟ったジョシュアは、渾身の力を込めてラシャプに突撃する。弓矢を奪う、唯一最大のチャンス。
一瞬、ジョシュアの目に映ったヤハウェの口がなにやらぱくぱく動いている、それが自分を罵倒するものだと、ジョシュアは気付かない…ヤハウェの発した「今
よっ!」は「今よっ!逃げましょっ!」という意味での「今よっ!」だったのだ。
「な、なにやってんのよお!」
あらん限りの声で叫ぶヤハウェ。
「う、うおおおっ!」
少々覇気のない声で叫ぶジョシュア。
「きょえええっ!」
なんとも覇気のない声で叫ぶ海竜レヴィアたん。
次の瞬間―
海竜の身を、雷撃の激流が襲っていた。水は電気を良く通すのだ。それはすぐに、ジュシュアの身にも流れ込んでこようとしていた。
「もうよいっ、くたばれ、この人間がぁっ!がっ!?」
ジョシュアが痛みを感じたその瞬間、ラシャプの身にも雷撃の波が纏わりついていた。
「う、うわわががわ」
「ぬ、ぬぐあああ」
「きょええええっ」
巻き上がる絶叫のコーラス。
「…あ、あいつ、自分自身に雷への防護耐性がないのに、こんな攻撃したの…?」
ヤハウェはあきれたよう目で眼前の地獄絵図を見守っていた。
なんとなく、自信が沸いてきた。
「そろそろ…いけそうでしょうか」
サタンは周りにラシャプの姿が無いことを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。
その胸元では、自らの主が発生させた雷が、未だに消えずに、ぼんやりと光っていた。
その明かりが、その暖かさが自分と主の繋がりを感じさせてくれるような気がした。
しかし、今はそんなことを考えてばかりもいられない。
「…さすが我が主」
胸元の雷光を、ゆっくりと動かす。
上手くいったようだ。
チャンスは一回、外すわけにはいかない。
激痛に耐えながらもジョシュアが矢の束を持ち逃げることが出来たのは、奇跡に近かった。
「こ、これ、持って、逃げ…」
「ちょっとっ!私はあんたから離れられないのよ!?」
だが、ジョシュアはもう、走れそうにない、もはやヤハウェは一人で逃げるしかない。
ラシャプが再び動き出す。
怒りに燃える瞳がヤハウェの手に抱かれた矢に視線を注ぐ。
それを見て、ジョシュアは上手くいった、と思った。先に自分のことを見ていたとしたら…自分はもう死んでいた。
「こ、これを返してほしくばっ、こっちへ来なさいっ!」
あまり格好良くない言い回しでラシャプを挑発するヤハウェ。彼女も、そうしなければジョシュアが殺されるということを感じていたのだろうか。
「…ああ、だがな、そんなものなくとも、貴様の首を捻りきってくれよう」
奇妙なまでに落ち着いたその声は、だが、それでいて正気を感じさせなかった。
大きく飛び上がるラシャプ。
それを手にした矢で迎撃しようかとも考えたが、そんなことをすれば、力任せに奪い返されるのが目に見えていた
のでやめておいた。今、やれることは一つだ
け。
「逃げるしかないっ」
再び走り出すヤハウェ。
「あそっ、びはっ、おわっ、りだっ」
狂気を滲ませた唸り声がヤハウェの身に纏わりつく。まるで、その声だけで彼女の動きを縛ってしまうかのような憎悪。
すぐにでもヤハウェの身をいくつもの破片に分断させられそうな腕をぶんぶんと振り回しながら、ラシャプが突撃してくる。少しでも気を抜いたら、粉々にさ
れる。
「はあっはあっはあっ…」
あまり遠くまで逃げたら、ジョシュアと離れてしまうために危険だと考えていたが、それはどうも杞憂だったようだ。ラシャプの勢いを見るに、そんな遠くま
では逃げられそうもない。
「さあ、死ねっ」
「い、嫌よっ!私は、在りて在るもの…なんだからっ!こんなことで、消えないっ!」
がっくりと倒れこむヤハウェ、それを押し潰すかのように、上半身丸ごと、斧のように振り下ろすラシャプ。
「くたばれいぃぃっ!!」
思わず目を瞑りそうになる、だが、瞑らない。瞑ったら、負けるような気がしたから。
「あんたがくたばりなさいようっ!」
ヤハウェが叫ぶ。
そして、それに続いて…
「が、あっ…」
ラシャプが倒れる音が、聞こえた。
「…う、上手くいった…の…?」
まだ、半信半疑といった表情で目の前の倒れた雷神の姿を見つめるヤハウェ。
「ええ…とりあえずは、成功です」
少し離れた所から、サタンの返事が聞こえてくる。
ラシャプの背中には、かって彼が放ったはずの矢が突き刺さっていた。
ジョシュアは遠くにかろうじて見える、サタンとヤハウェの姿を眺めて、安堵の深呼吸をした。
痺れも痛みも取れないので、まだ動けそうにはないが、それでも今の状況を喜ばずにはいられなかった。
「やった…」
サタンが別れ際にヤハウェに頼んでいた言葉が頭の中で繰り返される。ヤハウェは自ら発生させた雷を、自在にコントロールできる。これは、ラシャ
プがより自然に近い雷神であるのに対して、ヤハウェが人間に近い雷神であるがために可能らしいが、ジョシュアにはよくわからない。だが、今はそんなことは
どうでもいい。重要だったのは、ヤハウェがその雷を何処まで自在に操れるか、ということだったのだ。例えば―自分の手から離して、他人の命令に従わせる―
とか。
ラシャプの放った矢を受け止めた雷光は、ヤハウェの許可を得て、サタンのコントロール下に入ったのである。そして、ヤハウェからその雷への絶対的な支配
権を譲渡してもらったサタンは、それを再び矢に込めて、放ったのだ。
砂漠に取り残されていた海竜、ジョシュアの無茶な行為、正気を失ったラシャプ、逃げ延びることが出来たヤハウェ、矢を命中させる抜群のタイミングを得る
ことが出来たサタン、というあまりにも多くの偶発的要素に支えられたこの賭けだったが、それでも、ヤハウェたちは勝ったのだ。
「き、さ、まらあ…」
ずるずるとその身を引きずりながら、ラシャプが立ち上がろうとしている。
既に、それを警戒してヤハウェとサタンはその場を離れようとしていた。
「待て…」
今にも彼女たちに襲い掛かろうというラシャプだが、その顔色は暗い。
「そ、そうか…既に…」
その身を、矢が内包していた病が襲い掛かっていたのだ。
「おの…れ…その、矢を返せ…」
ラシャプがヤハウェを睨み付ける。ヤハウェの腕の中にある矢の中の一本が、疫病の治療のためにある矢だったのだ。
「だ、駄目に決まってるでしょ…っ」
ヤハウェが矢の一本を構えている。この状態では、例え矢を取り返そうと襲い掛かったとしても、返り討ちにされてしまうだろう。ラシャプは、自分の矢の真
の威力と言うものを、初めて自らの身で味わっていた。人間や神にもたらした疫病が、ここまで苦しいものだとは、知らなかった。矢を構えているヤハウェに
もその隣にいるサタンにも、勝てる気がしなかった。
「…な…らばあっ!」
足をばねの様に使って、ラシャプは無理矢理飛び跳ねる。向かう先は…
「ジョシュアあっ!!」
ヤハウェが、初めてその人間の名を口にした。
何が起こっているのかは、大体わかっていた。
だけど、体が言うことをきかない。
「う、く…」
ラシャプは自分を即座に八つ裂きにするのだろうか、それとも、もう少し利口に、人質にでもするのか。どちらにせよ、避けたい事態であることには変わらな
い。自分が死ねば、その後ヤハウェもサタンも力を失い消えてしまうのだ。再び思考をフル動員する。なんとしてでも、逃げ延び…
(いや…)
逃げ延びるよりも、しなきゃいけないことがあるんじゃないか。
相手がこっちを選んだということは、今のあの神は、相当に弱っている…こちらに向かってくるということは、ヤハウェやサタンにすら勝てないと考えている
のだ。瀕死の唯の人間にしか勝機を見出せない神なんかに、負けるものか。こちらは、圧倒的な力を持った雷神に対して、ここまで戦えたんだ。最後まで、やる
しかない。
ジョシュアが決意する。
見回せば、辺りはヤハウェとバアルの戦いによるものか、ラシャプの雷撃で弾け飛んだのか、それとも、強烈な砂嵐に運ばれてきたのか、いくつもの木片が転
がっていた。その一つを手にする。そして、その瞬間を、待つ。
「があああああああああっ!!」
もはや言葉にすらなっていない叫びを上げて、ラシャプが真上から降りかかって来た。まるで、太陽―ヤハウェが
落ちてきたときのようだ。あの時は、何も出
来なかったけど、今は―
「うわああああああっ!」
「あがああああああっ!」
何かが肉にめり込む音が聞こえた。
ジョシュアの掲げた木の棒が、ラシャプの喉元に突き刺さっていた。
「は、はっ…が…」
白目を剥いて、動かなくなるラシャプ。
ジョシュアの命を救った、その木片は―果たして唯の偶然だろうか―つい先頃、拾っておけば良かったと後悔した覚えのある、あの杖に出来そうだった木の枝
に酷
似している気がした。
第10章
「あははっ、うっわー本当に負けちゃったよ」
アナトが耐え切れずに笑い声を上げた。
「ちょ、ちょっとアナトちゃん、失礼だよっ」
「いやあ、この状況で負けちゃうってのはある意味凄いって」
バアルに咎められて、哄笑は抑えたものの、その言葉の節々に愉快そうな笑い声が入り混じっていた。
「なんたること…」
「信じられん。神たるものが、あそこまで愚かしい油断が出来るものなのか?」
「とんだ恥さらしよ」
アナトに続いてか、口々にラシャプを罵倒する神々。せっかくの獲物を奪われた上に、この結果である。彼らの不満も頂点に達していたのだ。
「あんたらもよく言うわよね。この中の誰一人としてラシャプに勝てないくせして」
アナトが意地悪そうな笑みを浮かべる。神々は今にも不満を爆発させそうな表情になるも、それが事実であることを知っているので、反論できない。
「まあ、その強さが油断につながったんだから、フォローしてあげる価値なんて欠片も無いんだけどね」
今回は、激昂して冷静さを失ってしまった、というのが致命的だったが、それ以前に、もっと確実で、もっと長い時間、じっくりと相手を弄ぶ方法など幾らで
もあった。敢えて隙だらけの戦法を用いた時点で、アナトの目にはラシャプの姿はただの道化にしか見えなかった。
「君主よ、この不祥事、如何致しましょうか…」
エルを取り巻く神々がざわめいている。
「そうですねえ」
決闘の結果と交わされた約束、そのことについて考え込んでいるような表情のエルだったが、アナトには、最初から答えが決まっている者が、あたかも考え事
をしているかのように見せかけているとしか思えなかった。
「約束は約束です。ヤハウェさんの民にも、カナンへの入植権を授けましょう」
エルの言葉が言い終わらぬうちから、神々が不満の声を上げた。
「それはやめるべきです!あの神めは、我らカナンの神々との協調など考えていません。敵を飼うようなものです」
「左様、付記するならば、あの程度の力しかない神、我らの万神殿に加える価値もないでしょう」
「そもそも、ラシャプとの決闘については、向こうは認知していないはず。賭けを成り立たせる必要も無いでしょう」
口々に、エルへの反論をあげる神々。口には出していなかったが、誰もが「だから、今度は私が止めを刺しにいきましょう」と言葉の最後に付け足したいよう
だった。
「うーん、そうですねえ、ここは一つ、バアルさんのご意見を伺ってみましょうか」
「えっ、私ですか?」
意外そうな顔をするバアル。
「はい、最初の決闘で勝利したのはバアルさんですからね。今回のラシャプさんの決闘が決闘として成立しているかどうか、ヤハウェさんのカナン入りを許す
べきなのか、それを決める権利はあなたにもあると思いますよ」
エルが笑顔で言う。
「そ、そうですか?それじゃあ…」
答えは決まっていた。
第11章
「はあはあ…」
まだ、呼吸が乱れている。
ここまで上手くいくなんて、自分でも思っていなかった。眼前で立ったまま動かなくなったラシャプの姿を目にしながら、ジョシュアは思った。
「助…かった…」
実際の所、木片を突き刺されたことでラシャプの勢いまで完全に止まるとは思えない。おそらく、彼はジョシュアの元に飛び降りた時点で、既に気を失いかけ
ていたのだろう。
「まだ、生きてるんだよね…」
与えられたダメージは、ジョシュアたちが思っているよりも少ない。病の苦痛と、いくつかの衝撃が折り重なった結果、気絶したのに過ぎないのだ。そして、
その最後の衝撃がジョシュアの放った木片だった。気を失いかけていたラシャプは、着地してから構えるまでにかなり時間をかけてしまった、そのおかげでジョ
シュアの攻撃が通用したのである。
「やったわね…」
駆けつけてくれたヤハウェが、立ち上がるのに手を貸してくれる。
「あ、ありがとう」
「いいから、とっとと離れるわよ。もう、こんなのに付き合ってられないわ」
ラシャプを一瞥して、二人は歩き出す。
「と、忘れてた。レヴィアたん、よくやってくれたわっ」
自分で作り出した泉の方へ向かって叫ぶヤハウェ。彼女の忠実なる僕は、一度だけ「きょえ」と声を上げると、泉の中に消えていく。それに続いて泉からも水
が引いていき、あとには元通りの砂だけが残った。
「あの子も、頑張ってくれたよね」
「そうね、まあ、私の作戦勝ちなんだけど」
精一杯強がるヤハウェ。
そこに、サタンも駆け寄る。
「見事でした」
サタンがヤハウェだけに労いの言葉をかける。
「…あんたに言われると、なんだか皮肉を込められているような気がするわね」
「滅相もない」
二人の掛け合いがなんだか愉快で、ジョシュアはおもわず笑ってしまう。
「なに笑ってるのよ?」
「ん、二人は仲が良いね、って」
「仲が良いんじゃないわよ、ご主人様と下僕なんだから、当然よ」
「その通りです。私は心も身体もご主人様に捧げております」
「へ、変な言い方するんじゃないわよっ」
「そうですか…」
…と、サタンの表情が、凍りつく。
「え…」
「あれ…」
続いて、ヤハウェとジョシュアが困惑の表情を浮かべる。
「…な、なに?ひ、一人じゃ勝てないからって、ぜ、全員で来たってとこ?」
精一杯、冷静に言い遂げようとしたヤハウェだが、どうしても声が上ずってしまう。
目の前にいきなり、音一つ立てずに神々の集団が現れたのだ。冷静でいられたことが不思議ですらあった。
「いえいえ、そんなことはありませんよ」
答えたのは、彼らの先頭に立った女性。おっとりとした雰囲気で、とてもじゃないが神々の頂点に立つ存在とは思えなかったが、それでも、周囲の神々が放つ
圧迫感と、彼女自体からうっすらと漏れ出る、隠し切れない底知れなさが、ヤハウェたちに戦闘の意思など抱かせなかった。
三人を囲んだ神々の数は20程度だろうか、どう足掻いても脱出することなどできそうも無い。
「えーと、あなたがヤハウェさんですね?」
一歩前に出るエル。ちょうどヤハウェの目の前に立つ格好となる。
「は、はひっ、そ、そうよっ」
素っ頓狂な声を上げるヤハウェ。
「あらあら、可愛い神様ですね。こんなちっちゃい体でよく頑張りましたね」
にっこりと笑うエル。
歓迎の意思しか感じられない彼女の態度は、ヤハウェにとって完全に想定外のものだった。
さらに、えらいえらい、とばかりにエルの手がヤハウェの頭を撫でる。最初は攻撃してくるつもりなのか、と警戒したが、敵意の欠片も感じられないその温も
りに、思わず気を許してしまいそうになる。
「ふゃ、え?え?」
「あらあらまあまあ」
頭の上を往復していく手の感触が異常なまでに心地良い。何も考えられなくなりそうになる。
「我が主よ。忘れないで下さい。ここは敵の只中です」
不機嫌そうな顔のサタンが、耳元で囁く。
「わ、わかってるわよっ」
だけど…逆らえそうも無い。
「ちょ、ちょ、やめ、やめ」
もっと凛とした態度で臨みたくても、口をついて出るのは腑抜けた声。
「あらあら、ごめんなさい。先生ちょっと調子に乗っちゃいました」
「…」
ようやく頭の上から手が飛び去っていく。ヤハウェは、それがなんだか名残惜しい気がするのを認めたくなくて、首を左右に振った。
「い、一体、あんたたちはなに!?私に何の用なのよっ!」
ほとんど半狂乱になったような声。
「そうそう、それを最初に言わなきゃ駄目ですね」
恐ろしいほどに、やさしく、穏やかなだけの声。
一息ついてから、エルが言う。
「私はエル。このカナンの神々の先生です」
その名を聞いて、ヤハウェとサタンが驚愕する。だが、エルは気にせず続ける。
「おめでとう。ヤハウェさん、あなたは決闘に勝利したんですよ」
ぽかん、と口をあけてその言葉の意味を考え出すヤハウェ。
「おめでとうっ」
それに続いて、祝福の言葉と拍手を送った神が一人。見れば、それはつい先頃、ヤハウェをボロボロのズタズタにしてくれた張本人だったりして、ヤハウェに
はますますこの状況がわからなくなる。
「我が主よ。あの雷神が最初に言った言葉を覚えていらっしゃいますか?」
「…そいえば、決闘を申し込む、みたいなことを言ってたような」
エルがそうそう、と頷く。
「ええ、確かにヤハウェさんはバアルさんとの決闘に敗れてしまいましたが、ヤハウェさんの頑張りを皆が惜しんで、もう一度決闘のチャンスをあげよう、と
いうことになったんですよ」
…そんな話、知らない。
「あら、そうでしたか。ラシャプさんはちょっとせっかちさんですから、ちょっと説明不足だったのかもしれませんね」
「…説明不足とか、そんな問題じゃなかったような…」
ジョシュアが思わず苦笑する。
「…あいつの頑張りを惜しんだ”みんな”って何人よ…」
神々の中からも突っ込みの声が聞こえる。
「よ、よくわからないんだけど…要するに、私との約束、果たしてくれるということ…?」
「はい、そういうことです。ヤハウェさん、先生あなたにも嗣業の地をあげちゃいます!あなたはこの土地を囲い、いたわり、守るんですよ?先生とのお約束
ですからね」
何もかもが現実感に乏しい。
「我が主よ。もっと素直にお喜び下さい。貴方は賭けに勝ったのです」
再び耳元にサタンの囁き。
「それじゃあ、私は…」
民と交わした約束を、果たせる?
ヤハウェの表情から、徐々に奇妙な状況に対する不安や得体の知れないものへの恐怖、戦いによる疲労といった要素が薄れていく。
「ほ、本当にっ!?本当の本当なのねっ!?」
「はい、本当の本当ですよ。元々、このカナンの土地にも入植の余地は少々ありましたしね」
エルの満面の笑み。
「えと…よくわからないけど、良かったね」
祝福を告げるジョシュアの声。
「私…これで…」
思わず、くらり、と倒れこみそうになる。やり遂げた、約束を成し遂げた、そんな万感の思い。
だが、
「ただし、一つだけ条件がありますよ?」
その、嫌な予感が付きまとっていそうな言葉が、ヤハウェを現実に引き戻した。
「…なに…?」
「ヤハウェさんも、私の生徒になってもらいますよ」
「はあ?」
ヤハウェも、サタンも、ジョシュアにも、意味がわからなかった。
神々の中からはそれを喜ぶような驚きの声が一つだけあがっていたが、他の神々は出来る限りの嫌な顔でその場を見つめていた。
「すいません、説明不足でしたね。いいですか?このカナン一帯に属する万神殿は私が代表を務めさせてもらっているんですけど、私の趣味で学校も兼業して
いるんです」
「ガッコウ?」
ヤハウェにもジョシュアにも縁の無い言葉だった。
「聞いたことがあります。カナンの君主エル神は、学校と称して神々を生徒というグループに分けて管理する方式をとっているとの事です」
情報収集はお手の物、とばかりにサタンが言う。
「もう、それじゃあ学校が面白くない場所みたいじゃないですか。もっと、こう…皆で多くの知識を学び、皆で活動していくことで友情を育み、たくさんの思
い出を作る場所なんですよ、学校は」
ぽかん、としているヤハウェを気にせず、エルは続ける。
「知った最初は、私もよくわからなかったんですけど、今じゃこうすることこそ、より良い世界を最善の創造する方法なのではないかとも思っているんです
よ。さあ、ヤハウェさんも皆と一緒に青春しましょうっ!」
「…はあ?」
「まさか、こんなにハマっちゃうなんて、自分でも予想外でした。先生、先生、ああ、なんて良い響きなんでしょう。今度、他の地域の神様たちに会ったとき
には教えてあげないとっ」
うっとりとするエル。
「…まあ、あんなこと言われたら、ああなっちゃうわよね」
アナトは、ヤハウェにちょっとだけ同情していた。あの異郷の神の態度は、まさにいつかの自分の姿と同じだった。
「でも、とっても素敵だと思うよ?」
バアルがうれしそうに言う。
「な、なんなの?一体、どうなってんの?」
「ヤハウェちゃん、これで私たち、クラスメイトだねっ」
一歩前に出て、バアルがヤハウェに声をかけた。
「は、はあっ!?」
「私、ヤハウェちゃんのこと、もっと知りたいな、仲良くなりたいな、って思ってたんだよっ。よろしくねっ」
と、手を差し出す。握手を求めているのだ。
「な、なんなのようっ!?」
先ほど戦った神に、急に手を握られて困惑するヤハウェ、うれしそうにその繋ぎあった手をぶんぶん振るバアル。
「それじゃヤハウェさん、ちゃんと学校に通ってくださいね。あ、万神殿の中に寮を用意してあるから、住処についても安心してくださいね」
「か、勝手に決めないでもらえるっ!?」
「でも、カナンに入植するには学校に通っていただかないと…」
「う…」
「通っていただけますね?」
「…」
「通っていただけますね?」
「……はい…」
背に腹は変えられない…ヤハウェは小さな声で同意した。このことで後悔することになるのは明白だったが、仕方が無い、仕方が無い、と何度も呟いて必死に
自分を納得させる。
「…至高神エルは…王権の頂点に立つ君主…主神バアルは…猛々しい雷神…」
サタンがなにやらぶつぶつと呟く。どうも、彼女が得た情報と現実との差異にギャップを感じているようだ。
「な、なんだか大変そうだなあ…」
蚊帳の外、といった感のあるジョシュア。こんな所は人間がいるべきところではない。出来ればさっさと立ち去りたい、などと考えていると、
「あら。そこの人間さん。ええと、名前はなっておっしゃるのかしら?」
目の前にその至高神エルが立っていた。
「えと…ジョシュアです」
「ジュシュアさんですか。聞きなれない名前ですけど、素敵ですっ。さて、ジョシュアさん、一応私たちはあなたとヤハウェさんの事情についてもほぼ承知し
ています。ですから、あなたもヤハウェさんと一緒に万神殿で学校に通ってもらいますよっ」
「…え?」
ジョシュアが愕然とし、サタンが唖然とし、ヤハウェが呆然としていた。
アナトやカナンの神々は不満げな面持ちで立ち尽くし、その場にはエルとバアルが喜ぶ声だけが、いつまでも響いていた。
「ヤハウェちゃん、良かったねっ」
「良くないわよっ」
―こうして、その神はヘブライの民と交わした最初の約束を果たした。少々不本意ながら。
□目次へ戻る